回転レボルバー

4つのディスクール

新茶、蛍、初夏満載な今日この頃です。新茶、というには若干遅いといえば遅いのですが、ちょいと奮発してみました。新茶の香りは、柔らかい夏の空気の香り。よいものです。蛍はといえば、どうせイベント用に放されたものたちの残党なのだろうとは思いますが、やはり出会うと心躍るものがありますね。一匹だけでしたが。

そう、先日の学生のディスクール、もとい大学のディスクールとも併せて考えることで、四つのディスクールに対する理解が多少なりとも増しました。今日はそのことを。

まず場所の意味から。図の左上から時計回りに、それぞれ動作主(エージェント)、それに働きかけられる他者、生産物、真理とされています。構成要素は斜線を引かれたSこと$、主人のシニフィアンS1、知のシニフィアンS2、対象aとしてのa。この四つの構成要素が、順序を維持したまま四つの位置を順番こに回っていきます。
ラカンの主眼は、社会構造の変動をこの四要素の順序関係を基本構造として維持したまま、その占める位置が変わることでそれぞれの関係性の持つ意味が変わってくる、というところにあります。なかんずく、権力構造の変容としての、主人のディスクールから大学のディスクールの変容、あるいは1/4回転というのは、近代的権力の誕生を鮮やかに描いています。

Mで表される主人のディスクール。この主人は自分が何を欲しているかを知りません。というより、ほしがりません。その意味では、主人はみずからの享楽から疎外された主体でもある、それが真理の位置にある$の意味です。つまり、左側の上下の二項は、ある意味で能動者にとって抑圧され、隠されている真理、ということを意味すると言っていいかもしれません。そして、右側の上下の二項、それは、知としての奴隷から、その産物として対象aを搾取すること、と考えれば、上のものから搾取したものが下のもの、ということになります。つまり、左の上下は抑圧関係、右の上下は搾取関係です。また、逆に言えば奴隷の生み出した対象aは、主人の欲望の不可解さの正確な対応物であり、その意味では正しい答えを得ていることになります。

しかし、Uで表される大学のディスクールにおいては、能動者、働きかけるのは主人ではなく、知です。それを助けるのは科学。何も意味しない、ただの知が、何も意味しないが故に客観的であり、中立的に見えるからこそ信頼されて、権力をふるいはじめます。それが、S2の下に抑圧されたS1の意味。隠されている真理です。そして、海のものとも山のものともつかない、どうなるか分からない確定不能性としての学生を主体へ生成していくこと、まあ産業労働者工場?としての大学の機能が右側の上下にあります。

Aで表される分析家のディスクールではどうでしょう。働きかけるものとしての分析家はaで表されます。欲望の対象であり、かつ、逃れ去ってしまう不分明な何かの象徴でもあり、またその答えを握っているかもしれない、知っているはずの他者としての分析家。しかし、彼が隠している真理とは知、おそらく正確には今度は非知としてのS2、何も知らないということでしょう。そして、それが働きかけるヒステリー的な主体、みずからの欲望が奪われなくなっているという欲求不満の主体$から、S1を引きずり出してくるのです。あなたの欲望の主人が誰であるのかを。

ですから、ヒステリー者のディスクール、Hでは、主体は主人に求め訴え、自分にとっての知S2を引っ張り出します。しかし、それが隠しているのは対象a、つまり、そこで得られた知を享受し、アイデンティティとして称揚しつつ、それではない何か、に自己の本質を感じている主体です。ドゥルーズ風に言えば、上に司祭のまなざし、下にちっぽけな秘密。

あとひとつ、下の二つの項は決して交わらない、疎外されている、ということをも検討しておくべきでしょう。主人のディスクールでいえば$とa、大学ではS1と$、分析ではS2とS1、ヒステリーではaとS2。主人のディスクールでは、それは幻想のマテームどおりですね。主人は実は享楽を絶対手に入れられません。ヘーゲルの定義上ね。逆に言えば、主人そのものがこの幻想の産物、つまり下の二つの疎外関係から析出されるものであるのかもしれません。
こう考えてみると、残りも楽しめます。大学では主体$は決して主人にはなれない。それが知の幻想を支えます。分析では主人は知を持たない。それが真実の知としての対象aの幻想を。

でもいちばんりかいしやすいのは、これ。ヒステリーでは知は私の内奥の秘密足り得ない、ということ。これはみなさんおなじみの、あの「私のどこが好きなの?」という問いかけに相当します。何を言っても、つまり貴女に対するどんな知の提供も、貴女にはしっくりこない、欲求不満をかき立てるものでしかありません。そう、欲求不満の主体$を作るだけなのです。。。

この疎外関係からの析出物としてのエージェント、という考え方は、四つのディスクールの回転が起こる理由を説明してくれそうでもありますが、それはまた別の分析が必要でしょう。とはいえ、内輪受けには結構面白いこの手のネタ、ラカニアン以外にはいつも通りの奴らの寝言にしか聞こえないのが、少々ネックです。このあたりをどう豊かな広がりと説得力を持たせることが出来るか、が、最近の課題かなあ。