九鬼周造の「偶然性について」

こうだらだら暑いと、生来の怠惰さがよりいっそう顕著になり、さらにいっそうだらだらと暮らしてしまう今日この頃。こうなると、あ、偶然、と思えるような瞬間はかけらもなく、毎日は鉄の必然性で進んでいきます。そんなわけで、今日は九鬼周造の「偶然性について」から。

プラトンからアリストテレスに始まって、中世神学を抑えつつルイス他の論理学者からハイデッガーに至るまで、偶然性の取り扱いを要領よくまとめつつ、新聞ネタから文芸ネタから、もろもろの偶然の逸話を小ネタとして差し挟むそのスタイル、まさに悠揚迫らず、というところでしょう。この時代の大家ならではですね。手元の版は昭和10年発行ということになっています。

そのまとまりの良さから、一見すると教科書的に見えてしまうかもしれませんが、とはいえ、そこはこの時代の再先端の哲学を学んだ人ですから、その焦点はより(この時代の言葉で言えば)「実存哲学」的なところにあったのでは、と思わされる箇所も随所に。

その要点は、必然性は過去、可能性は未来という時制におおきく関係づけられる、と論じた「偶然性の時間性格」と題した章にまとめられています。可能性についてはもちろんハイデッガーから。このへんは262ページに一ページほどで見事にまとめています。さすが。可能性を可能性として自己の前に開くことが投企であり、その在り方が関心です。その可能性をあらかじめ先取りしておかないと、当然その投企への動きは取れないわけですから、とうぜん決意というものが、自分自身に先駆的な形で必要となります。つまり、関心の主たる形は「みずからに先んじて」在ることだ、ということになりましょう。こうしてハイデッガーにとっては、時間の一次的現象は未来であり、未来に起点を有し、そして将来し、既存の過去へと赴くものになります。

必然性はアリストテレス、そしてプラトンから。在るべくして在ったもの、がアリストテレスの定義です。過去からの存続がその時間的契機。プラトンイデアは本質的必然の典型例だが、だからこそ無限の過去を振り返って前世におけるそれを想起しなければいけないことになるのだ、と九鬼はいいます。

それに引き替え、偶然性の時間的契機は「いま」だ、と九鬼は言います。九鬼のモデルでは、必然性と不可能性の二本の平行線上に、不可能性に頂点を持ち、必然性を底辺とする三角形が描かれます(236ページ)。この三角形の面積内が可能性のエリアです。そして、偶然性とはこの頂点、不可能性から忽然と可能性が将来するその瞬間に充てられています。「未来無き不可能性の闇から現在の非存在的一点をくぐって忽然としてほとばしり出る」(266)かっこいいですね。面白いのは偶然Zufallを頽落Verfallなどと並べているところです。もちろんその価値論的な側面は排除して、との但し書きつきですが。このへん、いわゆるハイデッガー哲学における頽落の問題をちょっと考え直した方がいい、という示唆を感じますね。

さらに面白いのは、ここでシェリングから「原始偶然」という考え方を引いてくるところでしょう。それは過去性として想起されれば必然に、未来において先取されれば可能性に様相化されてしまう。ですからそれは、アウグスティヌスの言葉を借りれば「一点において過ぎゆく」無に等しい現在の中で危うく成立するものとなります。シェリングの定義では「在るとだけいえる」もの、必然性の欠如という点で必然性から、実現された直接的現実性という点で可能性から、危うく区別されるこの一点。

さらに興味深い、そして精神分析的に考えさせられるポイントは次章、不安と可能性を、驚異と偶然性を、平穏と必然性を、というかたちで、九鬼の言葉で言えば情緒を様相と関連づけている点にあります。不安と可能性、これはまさにハイデッガーのテーマです。そして、精神分析でも不安は基本的な情動というか唯一の情動として認識されています。では精神分析における驚愕は?

セミネールの12巻(1965.1.6)の段階で、ラカンはテオドール・ライクらの言う驚きUberraschtungをちょっとからかっています。これは、分析家にとっては何かを理解したという徴であるとされていました。でもそれだけじゃ不十分だよね、と。他方15巻の段階では(1967.11.29)例のフロイトの「子供が叩かれる」の幻想と絡めて論じながら、驚きとは「意味の効果」であり、「本当の解釈であれば即座に発生させられるもの」とも。そのとき主体は「私は存在しない」場所において、純粋に論理的なものとして、非文法的なものとして、現れます。このとき主体は「思考-ものpense-chose」の中に疎外されます。無意識がもののようにことばを扱うという、あの場所へ。ですからこのときくだんの「我思う、ゆえに我在り」でいえば「ゆえに我在り」とも「ゆえに我存在せず」とも言えない一瞬が到来しているのだと。夢が自己中心的であるというのはこの点においてだとラカンは言います。夢を見るもの、私、Ichは全ての中に散乱しているのだから、と。その意味で私は在るようでもあり、またそれとして在るわけでもないのだから、無いようでもあり、と。

この、論理のJE、それが文法のわたし、と食い違う点から、精神分析の歩みは出発します。それは、私は存在しない、というもの=表象としての世界の中のわたしJEのなかにある穴を浮き上がらせるということです。この穴、この瞬間に意味が生じます。そして対象aにまつわるものの発生と。

同時にそれはこの瞬間が驚きの瞬間でもあるということになりましょう。すなわち、偶然性とはこの致命的な食い違い、文法的なわたしと論理の私のずれを意味するのでしょうか。論理の私の中になく、無意識において空白であり、文法の私においてあるもの。逆に言えば解釈とは、すくなくとも驚愕をもたらす解釈とは、その必然的なギャップ、空白地点を浮き上がらせ、現実的な、ものchoseとしての私の中から、真理の効果としての可能性の場を開かせる何かであるのかもしれません。(おそらくこの可能性の場が、幻想ということになるでしょう。)その意味での偶然性と捉えることは、不可能ではないでしょう。


ここまでいくと、何を言っているのかまったくわからない、ということになりそうです。しかし、私見ではこのわけのわからない論理構成は、シェリングのそれと非常に似ています。ジジェクシェリング論を書いた理由がちょっと分かる気がする今日この頃。では、そのシェリングは、あるいはジジェクは、といえば、それはまたいつか、ということで。。。おそらくその前に、ラカンにおける偶然性、必然性、可能性、不可能性の四様相を、アリストテレスとヒンティッカというラカンの元ネタから則して分析したカトゥリノーをも合わせて考える必要もありそうです。それもまた。