出会い系哲学

今日も引き続き、九鬼周造の「偶然性について」から。でも今日はちょっとだけ。。。

前回の話では、九鬼の偶然性についての分析をモチヴェートしたのが実存哲学との関係であったことを書きました。で、今回はもう一方の極、他者との出会い、という側面を足しておきたいと思います。

九鬼は偶然性をいくつかのカテゴリーに分けて詳細かつ明晰に分析するのですが、その詳細さはとりあえずすっ飛ばして(我ながら良いのか?)そのオチから。九鬼は偶然性という問題は3点、つまり、1.「個々の事物、事象」に、その例外性、に、そして2.異なるに系列が出会ってしまうことに、3.「それでなくても良かった」という、「無」つまりは無根拠さ、無底に帰着するものであると述べています。その三点は連続的です。個々の事物事象ということの核心には異なる二系の出会いが、そしてその出会いには「出会わなくても良かったかもしれない」という、その無があります。「自己ではなく他のものとして」という、アリストテレスヘーゲルの定義を引きながら、九鬼はそれを「我は我である」という同一律から、我と他の邂逅と、その内面化に充てています。つまり、様相論理を生の論理学へと展開させることに(三二七ページ)意識があるのです。

まあ、それが人間学化してしまうことに過ぎないのではないか、という批判はありましょうが、さしあたり精神分析的な様相論理(そんなことを言ったのはラカンくらいですが)との親近性を持たせやすい、という点で我々には利点があります。
ちなみに、ラカンアリストテレス解釈を網羅的にフォローしたCATHELINEAU, Pierre-Christophe. Lacan, lecteur d’Aristoteでは、その分析はどうなっていたかというと、またちょっと違うのです。
カトゥリノーも同じく、精神分析の様相論理において、偶然性をとりわけ称揚します。対照的に可能性の方はちょっと分が悪い感じ。

周知の通り、ラカンの様相論理の解釈では、

必然性:書かれることを止めないもの
不可能性:書かれないことを止めないもの
可能性:書かれることを止めるもの
偶然性:書かれないことを止めるもの

と定義されています。

書かれることを止めないもの、それはある意味では自動症的なディスクールの運動に充てられます。主体の中にある、あるいは主体をその中に包含する、というべきでしょう、ディスクールの運動、その中に主体をもう一度置き直すこと。それが分析の目的でもあります。他方で、可能性とは未来に関わる、ある事象p.が存在することも存在しないことも可能な事象。ラカンが依拠したのはヒンティッカJaakko HintikkaのTime and Necessityなわけですが、ヒンティッカは以降可能世界論にその重心を移していくことになります。ラカンは当然その方向性に批判的です。

ちなみに、ヒンティッカの可能と偶然の整理は、可能は必然と偶然を包摂し、不可能を排斥する、そして偶然は不可能と必然を排斥する、というものです。これは九鬼の整理とかなり近いものです。しかし、九鬼の図式化では偶然は不可能とは離接的な接近を持っているが、必然とは可能に仲介されることなくして必然へと移行することはないのに対し、ヒンティッカの図式では偶然は必然と不可能と仲良く隣り合っています。このあたり、九鬼の図式の方が私には興味深いものがありますが。

さて、可能とは未来の話、とは前回も話しましたが、同時にそれは「現実に到来してはならない」という制約を持ちます。つまり、現実化してしまえばそのどちらか一方は必然に変わってしまうのです。これは、カトゥリノーによれば主体の中にある未だ現実化されないもの、それについて語ることの不可能性を示すものとされます。つまり、主体の真理を現実化する出来事はいまだ主体によって語られてはいない、ということです。カトゥリノーは直接には語りませんが、私にはこれは分析の場の様相であるように思えます。とはいえこれはまだ未決の問題。

対照的に、偶然性は「真理とは精神の中に書き込まれにくる。」(三一六ページ)を意味し、「『書かれないことを止める』とは『主体によって再認される』を意味する。」と、カトゥリノーはLacan, lecteur d’Aristoteで示します。このとき、書かれることを止めた可能性は、書かれないことを止める偶然性に道を譲ります。

偶然性の称揚、という点で九鬼とカトゥリノーの立場は一緒のように見えます。しかし、九鬼のモデルでは不可能性と偶然性との邂逅によって可能性というものの領域が切り開かれ、そこから必然を求めていく、そしてそこから倒逆的に(九鬼のこの『事後性の論理』とも呼ぶべきものは、おそらくハイデッガー経由なのでしょうが、十分に着目しておく必要があります)その偶然性の生産的な意味を理解していくこと、という一貫した論理構成があるのに対し、カトゥリノーのモデルは可能性の位置づけが必ずしもはっきりしない、という点がネックになっているように思えます。私が可能性を自由連想に、解釈を偶然性におくことを考えたのはその所以ですが、しかし論理構成はまだまだこれから先の課題、というところでしょうか。

ですが、更に言えばこの異なる二者の邂逅という問題、九鬼にとってはそれは偶然性と必然性の一致に位置づけられており、その根源はシェリングにある、ということも忘れてはならないでしょう。シェリングの『原始偶然Urereignis』、それは一方では経験的な必然の因果を無限に遡るときに理念的に措定されるものです。しかし同時に、それは経験的必然の全てを部分として含蓄する全体でもある、と九鬼は言います(三〇四ページ)。ここから九鬼は、シェリングの原始偶然をスピノザの自己原因と他ならないものと考えます。つまり、絶対的形而上学的必然は絶対者の即自、神的実在であるとすると、原始偶然は絶対者の中にある他在、世界の端緒または墜落である、と。

この論理、いわば神の弁証法シェリングの『人間的自由の本質』や『哲学的経験論』といった中後期の著作に顕著であり、ヤコブベーメ他の引用からも分かるように、明らかに九鬼はシェリングと同じ道をたどりながらここを説明しています。ですから、我々はそれを検討しなければ行けません・・・が、むずかしい。。。ので、やはりジジェクシェリング論を併せながら、ゆっくりと検討していく必要があるでしょう。

とはいえ、この『あり得ない出会い』を、様相論理を通しながら突き止めていこうとする九鬼の立場は、とても興味深く、共感できるものがあります。まあでも、理解が進んだからといって自分にそんな出会いが起きるわけでは・・・まあないのですが。