穴があったら・・・

中井久夫「徴候・記憶・外傷」、届いてからずいぶん経つのですがようやく目を通しました。相変わらず一つの資料から総論結論まで飛ぶの速いなあ、と思いつつも、まあその直感性が楽しいせんせいです。今回は一般向けの原稿発表が中心ということもあるのでしょうが。そのせいか今回はより臨床家としての細かなニュアンスも感じられるところが端々に。

統合失調症微分性と鬱病積分性とか、例によって非常に興味深いカテゴライズもありで、いろいろと学ぶところもあるのですが、そちらはまた別の機会に措くとして、今回は恥の話から。

PTSDほか、トラウマという言葉がもうすっかり人口に膾炙して久しいものがあります。言葉の一人歩きは困ったものですし、そこからいっさいのニュアンスが欠けてしまい、無用の誤解曲解を招くのは更に困りものですが、ここでは中井先生、一番大事なのは外傷的事件に伴う「恥」の感覚だ、といいます。自責の念と恥と。ちなみに、マノーニは不安は恥と結びつくもので、それが自責に変わるのは分析状況においてではないか、とラカンに質問し賛同を得ていますから、不安をここに入れてみても良いかもしれません。(1953-07-08 LE SYMBOLIQUE, L'IMAGINAIRE ET LE REEL)

外傷というのは、主体によっては処理できない情報なわけですから、その情報をフロイト的に垂直に抑圧し、かつその反動、抑圧の回帰物としての症状に悩まされるのとは別に、主体の機構から切り離してしまうというかたちで処理する仕方もあり得ます。それが、ジャネ以来の解離説の唱えるところ。解離されたものは言語化の流れにのらず、そのためフラッシュバックに代表されるような、生の映像の力を失うことはなく残存し続けている、ということになっています。そうはいっても、この解離物の状態と、それを解離した主体との関係性は、やはり薄弱なのではなかろうか、と思うときもあるのですが、ジャネについては本当に勉強不足なので、これはまた今後の課題。今考えているのは、恥、自責、そして恍惚、この三つと解離物とがどう関係していくのか、ということです。
恍惚に関しては多少説明不足ですね。中井先生のいうようでは、ライオンに食われて死ぬ寸前だったある人物、恐怖や恐ろしさではなく恍惚感を感じ、そして食われる自分を上から見ている、という感覚を持ったと語っていたそうなのです。ですから、この本から学んだ外傷に関して主体が抱く感情から、恥、自責、恍惚の三つを抜き出して考えてみましょう。このうち、不安が自責へと変わっていくのは分析の過程においてだ、とマノーニが指摘していたことはすでに述べました。この分析は、おそらく精神分析の固有の意味での分析だけではなく、事件の普通の意味での分析でもよいのではないでしょうか。それを被害者が行うのであれ、その周囲の人物がおこなうであれ。

恥、ラカンセミネールの17巻、209ページでそれをhontologieと綴ったことが思い起こされます。もちろん、存在論ontologieと掛けただじゃれです。しかし、エクリの時点(772)で存在のアスペクトの一つとしてそれを捉えていたことも見逃せません。
さて、17巻の前掲箇所で、この「恥ずかしくて死にそう、というなかなか得難い経験」それはシニフィアンの失敗、シーニュであるとラカンはいいます。ラカンは、ハイデッガーの「死へ向かう存在」を「シニフィアンが他のシニフィアンに差し向けられる」という、シニフィアンの本質的な運動において差し出される名刺のようなものだ、といいます。しかしそれは同時に、主人のシニフィアンを湧出させる穴でもあるとも、ラカンはいいます。相変わらずややこしいですが、ここで注目しておくべきは、シニフィアンのように他のシニフィアンヘと回付されていかない、つまり意味論的なダンスの渦に巻き込まれていかない、という点です。それと同時に、というか逆に、というか、こうしたシニフィアンの堂々巡りを固定してしまい、そこから意味を決定するような機能を生み出すものである、ということも。言語化されるものではなく、むしろ言語の持つ意味の流動性を一点に固定してしまうもの、中井の語彙を利用しながら誤解を恐れずに語れば、そんなところでしょうか。

これらの前提として読んでおくべきは当然、セミネール11巻の、サルトルの覗き論_(?)とそれに対するラカンの考察でしょうが、それはまた明日にでも。