覗き魔の見るもの

サルトルの覗き論、というのは周知のように、『存在と無』の中で論じられた主題です。見られていることすら気づかぬうちにみられていること。そのまなざしから引き起こされる諸々の感情をサルトルは論じたわけですが、ここでは恥。サルトルのテーマは見られる対象となってしまう私、それも不意打ちを食らわしてくるようなまなざしによって対象となってしまう私です。その中で私はある種の超越性を失い、世界の平面な織物の中の一部に還元されてしまいます。つまり、その突然のまなざしによって見られることで、私はたとえば今この小汚い部屋の中にあるオブジェの一つとして見られる存在に成り下がる、ということですね。

ラカンの論点は、見る側見られる側を具体的な他者の現前とその現前する他者のまなざしによって無化されるモノとしての私、という点を批判することにあります。というのも「不意打ちをくわされたと感じるのは、無化する主体、すなわち客観性の世界の相関者ではなくて、欲望の機能の中に根をはっている主体」(セミネール11巻7章2節)だから、とラカンは言うのです。

どういうことでしょう。問題はまず、その欲望の中に根を張っている主体、とやらを考えてみることになりそうです。その三年ほどあとにラカンはこう述べています。「覗き魔が見たいと思っているものの中に、しかしそのもっとも内奥のところでそれを見ているものこそが問題なのだ、ということを覗き魔はそこで誤認しています。それは覗き魔を魅了し、凝結させるものです。それはまさに、覗き魔自身が絵の中で内在的なものとされてしまう場所です。」(1967.1.25)

一見するとサルトルとどう違うのか、という話ですね、読解にはやや慎重さが必要そうです。さて、問題はまず第一に、のぞき魔さんが『自分が見ている』と思っている、彼がのぞいている世界。まあ更衣室でも何でもいいのでしょうが、実は彼の持つ幻想の世界の中では、かれはその世界の側に覗かれている、すでにそのまなざしの中にいる、ということでしょう。つまり、幻想の世界の中では、かれはあるまなざしによって見られ、その視界に映るものとして描かれた一枚の絵の中に収まっています。彼が一生懸命探すのは、そのまなざしの地点なのですが、その覗きという自分自身の行為のおかげで、実は自分はすでにまなざしを受けていて、そしてそのまなざしを探しているのだ、ということが消え去ってしまいます。それが、幻想の構造ということでしょう。

この点で、ハイデガーは正しかったのです。(もっとも、サルトルラカンが恥じという感情を持ちだしたのはハイデガーの強い影響下なのですから当然ですが。)私は存在を見るのではなく見せつけられるのです。見るという能動的な行為のもつ絶対的な受動性。存在と言うことに関するものに対してのみ正しいことなのですが、そこでは、私は見るものであることから見せつけられるものに、それも私の欲望の原因対象を見せつけられるものに変わります。

中井先生のライオンの話の、恍惚の話を恥の話と関連づける理由はここにあります。