恍惚と不安

外傷と恥の感情の話、第三回目ですが、ここでようようおしまいというかまとめへ。
ハイデガー以来存在からの呼びかけの側に位置づけられることになったこの感情。ラカンはそれをシーニュというふうに読み替えます。つまり、言語のもつ意味の流動性を固定させ、失わせ、言い換え不能なものに変えてしまうもの、同時に、あらゆる意味そのものがそこに吸い込まれるように固定されていく、そんなものとして、シニフィアンと区別されるものです。

さて、そんな中心点、つまり呼びかけの点を恥の点としましょう。すると、サルトルそしてラカンの議論から、私が覗くのはその恥の点であること、同時に、じっさいの私の幻想はその恥の点から私自身を見ているという構図にあること、が分かります。同じようにそこから覗かれることで『覗き魔は魅了され凝結』してしまい、その絵画のなかの一部に還元されてしまうような。でもそれは、サルトルの言うように目の前に居る、のぞきを現行犯逮捕した(?)他者のまなざしによってそうなるのではありません。自分自身の幻想の構図の中の他者に、《他者》によってそうなるのです。ラカンの付け加えたこの変更点は、露出狂ほか諸々の特殊条件も考えに入れられるという点で便利です。どの条件で衆知を感じるかは結構微妙で、必ずしも現場を押さえられたことに限りませんからね。

そうすると、外傷の持つ感情のもうひとつ、恍惚というのが、この位置づけやすくなります。恍惚の感情の構造は、中井先生のたとえ話をそのまま使えば、ライオンの口です。自分をかみ殺そうとするライオンの口。その口を見た瞬間、被害者はそのライオンの口に食われている自分を幻想します。幽体離脱みたいな話ですね。それを恍惚というのなら、その恍惚の構造が恥の構造と綺麗に一致することが分かります。口が恥の点、そして、その口の側から見たまなざしの中に映る、食われる私。その凝結する絵画構造が幽体離脱の視界から幻想されます。

まあ、そんな感じで、外傷というものに伴う二つの感情、恥と恍惚が、外傷それ自体と取り結ぶ関係性の構造について考えてみました。おそらく最終的には、それは不安の構造に還元されるのではないか、とわたしは思っています。おそらくそれは、外傷というものを潜勢的なものとして捉えることを可能にするでしょう。つまり、その潜勢的なものの構造が、何かの契機を捉えて主体を構成し、そしてまた何かの(というより、今度はより明瞭に外傷的な事件をきっかけに)その構造を解体していくような、潜勢的な力。

とはいえ、このへんの話、おとこどもには身近な経験である、とある話から着想を得ているのですが、それはまた次に。