他ならぬこの私が・・・

不可能と必然の反転、という話を、シェリングの抱えた一つの問題ではなかろうか、というはなしをちょこっとしました。ついでに、ヤコブベーメに対する言及は、そのあたりの材料を探していたからではないかと。でも、このあたりの見解の本場といえば、やはりニコラウス・クザーヌスでしょう。

ニコラウスは「神を観ることについて」(八巻和彦訳、岩波書店、2001)でも、こう述べています。不可能性が現れる場にこそ真理を探究しなければならない(56)、そして、不可能性と必然性が一致する(57)と。でもこれは、どういうことなのでしょう。

ニコラウス・クザーヌスに関しては、邦訳もかなり出そろっていますし、そうでなくとも中世神学には私のような素人には窺い知れない深遠且つ重厚な研究の蓄積があります。ですので、本当はちょこっと読んだくらいで書くのもどうかとは思うのですが、ちょっと面白そうな著作だったので、やっぱりノートを取ってまとめてみることにしました。「非他なるもの」(松山康国・塩路憲一訳注、創文社、1992)です。

そう、ラカンの研究をなさっているかたなら想像の付くことでしょうが、この、非他なるもの、non aliud、つまりnon autreということになります。non sansとか、そのへんの微妙に二重否定っぽいラカンのレトリックについていくのに悩まされた経験のある方なら、もしかして何か良きヒントが、もっと言えば元ネタが、こうした中世神学の伝統にかいま見られるのでは、と期待しても無理からぬところです。というか、私はそう思って手に取りました。なにせ、「他者の他者である「非他者」は、他者ではない、ということを認識する人は、他なる諸物の他なるものとしての、他者の他者を認識する。」(134)なんて言われてしまっては、ラカンの研究者なら誰でもちょっと気をそそられることでしょう。つまり、ラカンによれば存在しないはずの、他者の他者が存在して、それが非他者なのか。でもそれはいわゆる他者とは違うものになるのか。などなど。そうするとこれは、純粋な差異、ということになるのでしょうか。まあでも、先走るのは止めましょう。


さて、このnon aliud、非他なるものと題されていますが、文字通り「ほかならぬ」という意味でもあります。「ほかならぬこのわたしがいってるのよ!」みたいな感じで使って良い言葉なのですね。で、このほかならぬ。なんでしょう?ほかじゃないなら、おなじ?「ほかならぬこのわたしが」は、たぶん「まさにこのわたしが」という意味ですよね。でも、どうしてそれが神の存在と認識の論理なのでしょう?

そもそもが、ここで疑問も出てきます。非他、ということは、それは他の否定。ということは、非他より他の方が論理的に優先されるのでしょうか?さらにいえば、非他なるものなら、同じ物、じゃだめなの?という疑問も出てきます。まあ、後者の方は、二重否定がイコール肯定に折り重ならない、という反論は可能ですが、前者の方は難しそうです。

「神を観ることについて」で、ニコラウス・クザーヌスは「他性は存在の<始源>ではありません。というのは、他性は非存在に由来して名付けられているからです。」(83)と述べています。つまり、他は〜でない、ということによって名付けられるのだから、それ以前に〜である、か来るはずです。でもそれは、〜である、という直接的なかたちではいけないのでしょうか。どうして、「〜ではない・ではない」というややこしいかたちになるのでしょう。

再び「非他なるもの」に戻ると、そこでクザーヌスはこうも言っています。


「すなわち「非他なるもの」の認識は、全き無知と名付けられうると。何故なら、この認識は、まさしく、認識されうるかぎりの一切を超出せるものについての認識でありますが故に。」(92)

とすると、やっぱりそれは、何かを否定的なかたちでしか認識できない、常になにかを「〜ではない」としてしか捉えられない我々の限界を意味しているのでしょうか。たとえば、クザーヌスはこんなことも言います。「一者は、有限と無限とに先んじてあり、かつ、一切の無限性を制約しているのです。またそれは、一切万物に同時に関係してありながらも、なお、その万物よりしては、不可捉なまなにとどまっているのです。」(81)それで、〜ではない、という定義しかなされ得ないということなのでしょうか。こう考えると、このように不可能なものが、同時に必然としての神でもある、というだけのことであるようにも思われます。

しかし、どうもそれだけではなさそうなのです。たとえば


第八命題:「他ならないもの(非他なるもの)」は諸々の思惟の思惟であるが故に、この「非他なるもの」なくしては、何ものかが人間の思惟に入りこむ、ということは不可能である。・・・にもかかわらず、「非他なるもの」は、思惟そのものなのではない。」(129)

だとすると、これはそれ自体では思惟ではないが、思惟を可能にするもの、と読むことが出来ます。続いて


第二十命題:「・・・可能態は、それが自分自身を現実態へ導き入れるというものではない・・・が故に、したがって、可能態を現実態へと導きゆく、動者が必要とされるのである。かくして、理性的精神は、自然と、自然の動きとを見て、そこに、それ自体の中に映現している、自然の自然としての「非他なるもの」を見得するのでる。」(137)

そう、このような記述からも分かるように、非他は動者として、可能態を現実態に引き入れるものとして想定されています。思惟というものも、神の思惟が無限の可能性そのものであるとすれば、我々はその無限の可能性の現実態を、この非他なるものを認識することで思惟することが可能になるはずです。そうであるとすれば、これは思惟の思惟と呼ばれてしかるべきものでしょう。ここで、ニコラウス・クザーヌスは一を二重化しています。この非他なるものが一者であり、それが一として存在するものを規定するのだと。だから認識しうるものの全てはこの一者に他なりません。

これはまた、同時に時間論としても理解可能です。ニコラウスはこの対話編の相手、フェルディナンドゥスの口を借りて、こう言わせています。「「現在」とは、様々に刻まれる時の全ての差異と多様性の、認識原理にして、かつ存在原理なのでありますから。すなわち、私は、「現在」を通して、過去的なものと未来的なものとを認識するのです。」(86)これに対してニコラウスは、「現在は、現在に他ならないものとして、「非他なるもの」を前提としているのでありまして・・・」(87)と補足します。

こうしてみると我々は、この非他なるものが神の永遠から時間性をもたらすものでもあろうか、と考えることも出来ます。しかし、第十三命題では、非他は永遠なる永遠性であると言われています。つまり、それ自体が時間の中にはいることは決してないものなのです。

このように考えていくことで、我々は二つの仮説を考えてみたいという誘惑に駆られます。
一方では、ラカン的なUn、としての非他なるもの、という重ね合わせは可能なのかということ。それは、相違に気づくという点で既にこの一者をまなざしのうちに保持していることが明らかになる、とハイデガーが言うような意味での、一者です。(『カントの純粋理性批判現象学的解釈』、232ページ)そして、この重ね合わせが可能だとすると、それは他者の他者という問題、そして他者と一者という問題に、大きな寄与をしてくれそうです。
他方で、シェリングがあれだけ頭を悩ませることになった、永遠の可能性が現実態へ移行する、その移行の契機として、非他なるものを考えることが出来るのか。こちらは、その偶発的な契機をその後の認識論の基盤として扱うことを可能にしてくれるという点で期待があるのですが。。。

・・・いずれにせよ、このことは、もう少しニコラウス・クザーヌスの著作を押さえてから再検討しなければなりません。それにはまだ少し時間が掛かりそうです。