どんなときも、どんなときも


7割方雑談ばかり、という気がしないでもないとある読書会でのこと、私の先輩がいいました。
郊外の住宅地に向かう電車に揺られるぎゅうぎゅう詰めのサラリーマンを見ながら、こう思ったのだそうです。この人たちは、住宅ローンを抱えている。そしてローンを組むときには、たいていの場合、万が一に備えて生命保険をかけさせられます。そのローンを払いきるに十分な額の生命保険を。そして、そのローンを返しきるために働き続けます。たいていの場合、定年まで返しきれない、下手をすると退職金も込みで返済、だったり。

でも、だとすると、この人たちの人生は、このあと、もしかして生きていても死んでも一緒?と、先輩は思ってしまったのだそうです。「俺の人生は家のローンを返すためにだけあくせく働くことなんだなあ・・・」そりゃ確かに、生きているのはローンを返すため。でも、死ねば死んだでローン、返せます。そのための保険金。え、でも死んだって返せるんなら生きてなくてもいいじゃん、そう思うと、電車のサラリーマンがどこかゾンビに見えたそう。

でも、この話、一つだけ弱点があります。生きていても死んでいても同じ、それは確かなのですが、問題は死んではいけない、というか、自分で死んではいけないのです。契約がどうなっているかは知りませんが、保険金の満額でローンが組まれていた場合、自殺で減額されたら返せなくなります。

ですから、この社会的無意識のメッセージは、「お前はもう生きていても死んでも同じような存在だが、自分で死を選んではいけない」、という、死の不自由さであることになります。そう、これはどこかフーコーの生-政治を思い出させます。しかし、これが完全にフーコー的な概念の一例になるのか、その点に関しては若干の違和感を残します。あの議論には、生の管理という観念はあっても、そして生殺与奪から生の管理への移行という観念はあっても、死の不自由という観念はやや希薄な気がします。それはアガンベンでも一緒です。生きていても死んでいても一緒という点を強調することに関しては、アガンベンの方がより近くはあるのでしょうが。

とはいえ、実はこの問題に関して真剣に考えてみるのは初めてでしたので、二人の議論の繊細さを見逃している可能性はとても高い。ということで、このふたりの議論から、この「死の不自由さ」あるいは生の管理の一貫としての、狡猾な「自殺の禁止」について、いずれちょっと時間をとって検討してみたいと思います。今日は、とりあえずモチベーションの整理まで。