狼少年

そのむかし、やたら雑学に強い哲学の某教授が、アヴァロンの野生児ほか、「狼に育てられた」とか、そういう物語のもとに発見された、言語の外に育った子供達のことをちょっと質問していました。

もちろん、それは、ひとは言語の中に生まれるというお題目を繰り返すラカン派の影響下の学生さんの発表にちゃちゃを入れるためだったのでしょうが、確か記憶によれば某教授、そのとき、ある時代にまとめて報告が増えたのだが、というようなことに、ちょっと触れていたような気がします。この記憶自体がさだかではないので、何とも言えないのですが、彼がその同時代性の謎に触れていたとしたら、それはそれでただの雑学披露に終わらぬ良い疑問だったのでしょう。

ということで、今日はまずその謎に回答を出したジョルジョ・アガンベン『開かれ』から。翻訳はまたしても京大の岡田先生チーム。

アガンベンはこう言います。この、1700年代前半に集中して現れる野生児、それは


人間についての諸科学がその相貌の輪郭を描きはじめたときに、ヨーロッパの辺境の村々に頻繁に現れるようになる野生児は、人間のもつ非人間性の死者であり、人間のアイデンティティが脆弱であること、人間に固有の顔が欠如していることを告げる承認なのである。これら言葉をもたぬ不確実な存在に対して、アンシャン・レジーム期の人々が彼らのうちにみずからの姿を認識し、彼らを「人間化」しようとして傾けた情熱から垣間見えてくるのは、この時代の人々がいかに人間の不安定さを自覚していたか、ということである。」(50/1)

アガンベンのこの指摘の箇所は、リンネ、そう、あの自然学の泰斗について論じたあとのところに置かれています。リンネの『自然の体系』では、人間はその自然な特徴からではなく、人間を人間として自己認識する、そしてその自己認識を行うということから定義されるのが人間である、とされているとアガンベンは論じます。このことは必然的に、じゃあ生物としては人間だけど自己認識とかと関係ないってひとはどうなるの、という疑問が生じます。この疑問に答えるために、アヴァロンの野生児は注目を浴びたのだと言うこともできるかもしれません。

さて、話は後先になりましたが、アガンベンのこの著作は、この人間のうちにあってせめぎあう動物と人間、の裂け目を主題としています。この主題が、例えば彼の主著と言っていい「ホモ・サケル」などと密接なものであることは言うまでもありません。あるいはラカニアンですと、鏡像段階論に出てくる「人間は人間でないものを知っている、そして自らが人間でないといわれることを恐れて私は人間であると断言する」という、あのテーゼを思い出すかもしれません。

とはいえ、アガンベンのこの話は、まあ全体の前振りにすぎません。ここからアガンベンは更に、ハイデガーの『形而上学の根本問題』のなかに見られる、ユクスキュルとハイデガーのせめぎ合いを通じて、このテーマをより深めていきます。この話を、また次にしたいと思います。