ヒキコモリのダニ


ユクスキュルの報告では、自分の出番を待ちながら18年ほどおやすみ中のダニがいたそうです。

ベイトソンが、ユクスキュルのこのへんの話、大好きだったなあ、ということを思い出しますね。何はともあれ、この種類のダニさんは、酪酸という物質の臭いだけに反応し、37度という温度だけを唯一の味覚にして、獲物に向かっていくのだそうです。逆に言えば、その環境が得られない限り、後々のハイデガーのタームを使えばその環境に「窮乏して」いるばあい、しかたないのでダニさんはおやすみ。

ユクスキュルのこの話は、よく、動物と人間は全然違う知覚、あるいは知覚の基準を持っていて、それぞれが全然違う世界に生きているのだ、ということを説明するためによく援用されます。でも、ハイデガーの視点はまたちょっと違います。

ハイデガーは、ダニにとっての酪酸のようなものを、「抑止解除するものdas Enthemmende」といいます。そして、ダニがそれをず〜っとず〜っと待っている様子のことを、放心Benommenheitといいます。心を奪われていること。そして、ハイデガーの定義によれば、動物は、この抑止解除の範囲内にあるものとは全て「関係を持っている」、だからこそ人間とは区別されるのだ、といいます。このダニさんにとって、この抑止解除するものは、存在者として認識されることはありません。抑止解除するものを、たしかに所有している、たしかにそれに対して開かれている、にもかかわらず、です。ハイデガーはそのことを、「世界を持たない」と述べています。

では、人間はどうなのでしょう。ハイデガーのたとえは面白いものです。まず、この放心を「倦怠」と比べてみるのです。そして、その倦怠たるや、「電車を待ちながら駅の待合室で2時間」みたいな、まったくもって平凡な倦怠です。ですが、ここでのハイデガーの分析はかなり吹っ飛んでいるというか、異様なものです。ハイデガーはこう言います。この倦怠の時の中、諸事物はたしかに存在する、しかしそれは我々とは完全に無関係なままにとどまっている、と。ここまでは、まあ良いでしょう。電車の待合室、そのなかの倦怠、世界のよそよそしさ。

しかし、ハイデガーのここからの説明は難解です。というのも、我々は、我々を退屈させるものに釘付けにされてしまうからだ、とハイデガーはいうのです。その拘束、束縛。ここで、倦怠は根本的な気分のようなものとなり、本来的な意味で現存在を構成するものとなります。アガンベンは、『存在と時間』での不安は、この倦怠に対する一種の回答である、とさえ述べています。

つまり、倦怠は、な〜んにもすることがない、ヒマねえ、というだけではないようなのです。そのときに、まあ確かに我々はいらいらしたり、その退屈な時間の退屈さそのものに心を奪われたりすることもあるでしょう。しかし、ハイデガーのこの説明は、むしろその退屈さそのものが、人間が本質的に直面するものであり、精神分析ではもっとも根本的な、いや唯一の情動とされる不安でさえ、この退屈の前の人間に生まれるもの、とされているのです。ハイデガーはそれを、現存在が、なにかに執拗に拒まれているのだ、といいます。つまり、世界が確かにそこにありながら、しかし我々とは絶対の無関係のなかにある、我々に対して絶対の無関心を抱いている、そのことです。

このことで、現存在は、宙づりのままに保持されてあるHingehaltenheitこと、という立場に置かれることになります。つまり、絶対的な無関心があり、それはたしかに現前しているが、それに近づくことは出来ないということです。ですが、その拒絶において、宙づりのままに保持されるということによって、純粋な可能性、あるいは根源的な可能化die ursprungliche Ermoglichungが顕現する、とハイデガーは言います。

アガンベンはそれをこうまとめます。


「可能性の不活性化においてはじめてそれ自体として立ち現れてくるものとは、すなわち、可能態=潜在性の起源そのもの−さらには、現存在の、つまり、存在可能性の形式のうちに実存する存在者の起源そのもの−なのである。だが、この根源的な可能態や可能化は−まさにそれゆえに−否定の可能態、つまり、無能性を構成する。というのも、できないこと、人為による個々の特定の可能性を不活性化することから出発してのみ、この根源的な可能化は可能だからである。」(105)

つまり、この純粋な宙づり状態、それが人間的な意味での「可能性」の根本条件となっているのです。可能性の可能性、といってもいいでしょう。ですが、同時にその可能性とは、「無」との出会いによって生まれたものなのだ、とも、アガンベンは続けます。


「存在は、その根源以来、無に横切られており、開かれは元をただえば無化なのである、というのも、世界が人間に対して開かれるのは、生物とその抑止解除するものとの関係を遮断し無化するかぎりにおいてだからである。」(108)

ハイデガーはそれを「存在は無という澄んだ夜のなかから生まれる」といったのだそうです。美しい。

さて、アガンベン本人が、第十七章『人類創生』におけるテーゼで、彼のここまでの論旨を上手にまとめています。

(1)人類創生は人間と動物の間の中間休止や分節化の結果として生じ、それはなによりまず人間の内部に起こっている。
(2)存在論、第一哲学はこの人類創生、生物の人間化を実現させるような、あらゆる意味において根本的な操作である。
(3)人間は己の動物性を宙づりにし、生が例外領域へと拘留され置き去りにされる自由で空虚な領域を開く
(4)そのことでのみ世界が人間に対して開かれるが故に、存在は常に既に無によって横断されている
(5)現代の文化にある動物性と人間性の間の闘争
(6)人類学機械が人間の歴史化の原動力であったとすれば、哲学の終焉と事態に左右される存在目的の完遂は、この機械が空回りしていることを意味している

(1)、(2)に関しては、前回お話しした通り。今回の話では、(3)、(4)が説明されたのでした。そして(5)(6)に関して、アガンベンは自分の立場をこうまとめています。


「われわれの人間が概念を左右する機会を機能させないようにするということは、それゆえ、もはや新たな−いっそう有効で偽りのない−分節化を模索することを意味しないだろう。むしろそれは、中心に空虚を見せてやること、すなわち、人間と動物を−人間のうちで−分割する断絶を見せてやることなのであり、この空虚に身を晒すこと、つまり、宙づりの宙づり、人間と動物の無為に身を晒すことにほかならない。」(138)

アガンベンのこの著作は、この人間のうちにあってせめぎあう動物と人間、の裂け目を主題としている、と前回言いました。そしてアガンベンにとっては、その亀裂を生んだ近代の諸条件、人類学機械が、そのままアウシュヴィッツの記憶へ直結するものとなっている、といってもいいでしょう。そしてその亀裂が、ハイデガーの指摘する、人間の倦怠、という宙づりから生まれるのであるとすれば、そして存在の無化、ということから生まれるのであるとすれば、その宙づり自体を宙づりしてみせることが必要です。

だからこそ、ハイデガーは「存在を与えること」を至高の行為としたのだ、といっていいでしょう。

とはいえ、ハイデガー先生、そんなに電車を待つのがお嫌いですか?という気もしますが。。。しかし、そこから一つの哲学が生まれたのであれば、それはそれで実りのあるイラチということになりましょうか。