「故に?」我在り?

今回は久々に(いつもそう書いている気がする)読書会の記録から。Lacan, Seminaire XVII, "L'envers de la Psychanalyse"からp.180-182ですね

あいかわらずはなしは流れ流れてのセミネール、焦点が絞りにくいので、今回はピンポイントで。ラカンのUnの扱いについてです。

Un、一、のはなし。結構おなじみの話題ではあります。ここでは諸々のUnが総動員。まず、同一化においてのUn。それは、何かを統合する、一つにまとめる、全体toutというものを作り出す、そんなUnとは違うのだ、とラカンは言います。それは数えるために切れ目を入れておくような、そんな目印としてのUnです。ここではラカンはtrait unaireという言葉を使います。後のラカンの言葉を借りれば、勘定するUn(Un comptant)ということになるでしょう。この刻み目をつけられた存在、それはディスクールの効果のなかに取り込まれた主体である、ということになります。そして、そこに情動というものが生まれてくると。
例によってそりゃそうなのかもしれないがなんの意味があるの?というはなしですが、その意味についてはこのあとの展開もあわせて再検討するということで、まずは続き。

というより、ここまではラカニアンには比較的おなじみの話なので、いちいちまとめる必要も無いことなのですが、ここでラカンは新企画を出してきます。つまり、我思う、故に我在り、というデカルトのコギト、そこでの我在りとは、我は一で在る、je suis unということなのだ、と。あるいは、わたしは一によって徴づけられて在るのだ、とも。この読替の根拠はあまり詳しくは語られません。ラカンデカルトの属するスコラ派的な伝統に軽く言及していますが、いかんせんこのへん知らないのです。。。

そしてもう一つ、こちらはおなじみの企画に少々変更を加えた、というかんじですが、このコギトを再度読み替えて、ラカンはこういっていました。「我思う『故に我在り』と」。ラカンはこれを「我思う故に『我在り』」と読み替えることにした、といいます。これ、日本語訳があっているか難しいところです。ラカンの表記(あるいはミレールの転記)では"Je pense donc: ."となっています。ラカンは、この『故に』doncが思考されたもの、思われたものであるといいます。

前者では、この狂ったコギトは『故に我在り』『故に我在り』(以下ループ)と繰りかえす壊れたCDかレコードか、という状況になります。後者では比重はこの『故に』の方に掛かります。『だから』『だから』『だから』(同じく以下ループ)そのdoncをラカンは原因、causeであるともいいます。それが、先ほどの一としてのtrait unaireの発生によってランガージュの効果が生まれてくる、そのもっともシンプルな秩序であるともいいます。

そう、主体はここでは「だから」か〜、と繰りかえしいっているかなりとぼけた存在に還元されます。無邪気ですね。で、それはどういうことなのでしょう。

問題は思考というものをどう捉えるか、ということに掛かってきます。思考とは、ここでは自分に徴づけられた一を見て、あるいは自分が一によって徴づけられて在ることを見て「だからか〜」とため息を繰りかえすこと、そんな感じになっていますね。
では、その一とはなんなのでしょう。ここで思い出すべきは、『盗まれた手紙のセミネール』からサイバネティクス論に到るラカンの初期の思索。

とはいえ、はなしが長くなりました。つづきはまたあした。