デカルトあるいは映写技師としての神


さて、前回までちょこちょこっとラカンせんせいのとっぴなデカルト解釈を聞いていたわけですが、今回はちょっとまともな・・・と思いきやちゃんとした哲学の人からはやっぱりとっぴかもしれないデカルトの小ネタで勝負してみたいと思います。

我思う、故に我在り。さて、「でさ、何を思うのさ?」と突っ込んだのはカント先生。でも、この場合の思うってのは表象するってのと同じことだから、と言ったのはシェリングです。つまるところ、なんであれ表象がある、ってことですが、だからこそデカルトにとってはあとはその表象をつくった神様の存在が証明できれば万事おっけーでした。つまるところ、表象を創造する権利は神様にしかなかったのです。

もちろん、これがデカルトにとって完全に確実だったか、は微妙なところです。有名なフーコーデリダ論争もこのへんの微妙が実際の焦点といっていいでしょう。でも、デカルトの機会主義的な議論はこの連結部に神が入ってくることを肯定しているようにも思えます。そして、「視覚新論」のバークリーはこれを完全に肯定します。われわれは神様が見せてくれているものを見ているのであって、それ以外じゃないものねぇ、というのが彼の論。マルブランシュになると、手よ手よ動け、という意識と実際の体の動きとの間には神様が介入しているものねぇ、と断言します。なんだかモビルスーツに乗ったアムロくんかシンジくんかみたいなはなしです。でも、外界と意識、心と体、ほか諸々の二元論をつないで双方を連動させて機能させる表象=思惟は神様の持ち分、ということなのでしょう。
つまるところ、デカルトの直後の流れではどちらかというと表象の製造権は神様にあるよね、という方向が有力だったのではないでしょうか。

さて、その微妙さを引き戻したのはドイツ観念論シェリングに言わせれば表象の製造権を人間にありと公言したのはフィヒテだった、ということだそうです。心配なのはこの表象の製造権(いや、製造権とはいってませんが)という趣旨の言葉をシェリングがあんまりにもさらっと口にしていること。当時のドイツ観念論のなかでこれは日常的なトピックだったのでしょうか。そうでしかあり得ないくらいのさらっとした感じだったので、どうも気になります。詳しいかた教えてください。。。

それがどんな展開をもたらすのか、それはまた稿を改めて検討しなければなりません。ですが、デカルトの「我思う、故に我在り」、パロディーバージョンを作るとしたら、、、

「私は映画を見ている、で、映画の映像というのは私には作れないから神様が作ったのだ、で、神様がインチキ捏造映像を垂れ流して私に見せている、という可能性もあるけど、神様ってそんなにヒマじゃないよね」

そう、《他者》に《他者》はいないのです。神様という《他者》が、わざわざ私という人間を《他者》としての観客に見立てて私を騙すためだけの映像を作る必要はないのです。そして、このパラノイア的な疑いへの防衛ラインがドイツ観念論によって切り開かれたあと、人の思惟はどのように変わったのでしょうか。それはまた、ゆっくりと考えなければいけません。