余の辞書に・・・


さて、以前九鬼周造の話をしたときのテーマは「偶然性」でした。
様相論理では、可能性と偶然性の曖昧さ、区別の微妙さというのが一つの主要なトピックです。しかし、一応ラカンの研究をしている手前、気になるのはどちらかといえば「不可能」のほう。

ラカンの概念で、現実的なもの、というのが、とても曖昧なステイタスを持っていることはよく知られています。現実的なもの、「書かれないことを止めないもの」、不可能、まあまあそんな感じのご託が続くわけです。解釈の方も、カントの物自体論的な不可知論から、ゲーデル不完全性定理をそのまま拝借した象徴界の不完全性としての穴みたいな話まで、もろもろご託宣が並びます。もちろん、ラカンの発言を手がかりにいろいろの模索が続いた結果のことですので、それ自体的はずれとか見当違いということではないのですが、どうも今ひとつ魅力に欠けます。

そんなわけで、もしかしてこの「不可能」という言葉の様相論理的な意味から攻めていける点がないだろうか、という期待は持っていたのです。ところがまあ、様相論理ではこの不可能さん、えらく扱いが悪く、単に「存在することは可能ではない」ということになっています。そっから先どないせいっちゅうねん、という話。

とはいえ、まあこれは不可能という言葉がそういうものである以上、しかたのないこと。問題は、その不可能をそれ以上のものとして読み解く必要性があるのか、ということです。そして、その必要性を感じたものたちが、おそらくかれらなりの不可能性の様相論理を試行錯誤しながら進めていくことになります。

そして、不可能性をそういう観点から考察した人間として、さしあたりラカンシェリングを私は考えています。いかなる基礎、根底をも持たない、不可能なものが、あり得ないことが起こってしまうのはなぜか。その問いを巡って、ひとは不可能の様相を再検討する必要に迫られます。私見では、シェリングヤコブベーメから受けた影響とは、一般にいわれるようにキリスト教神秘主義的な傾向だけではありません。そして、彼が何故影響を受けたのか、ということに関しても、その後の神話研究他諸々へ進んだ彼自身の神秘主義的傾向が親和性を持っていたから、というだけとは思えません。この、あり得ないことが起こる、その不可能性に対する、なにか別の論理を求めていたからではないかと思われるのです。

そういえば、ラカンも、書かれないことを止める=偶然性を愛に、そしてそれが書かれないことを止めないへ移行しがちである、という点に愛の悲劇を、それぞれ見て取っていました。そして、その不可能な愛がある瞬間偶然を捉えて可能になるのであるとすれば、その不可能とはどういうことだったのか、とも(セミネール20巻の最後の数ページを参照してください)。それぞれの論者が、偶然性=愛の問題と、そのありえなさ、あるいは「あり得ないことが起こってしまったこととしての」愛を考え、そこから不可能性のステイタスを捉え直していた、ということは非常に興味深いところです。

そんなわけで、これから何回か、この不可能という言葉の意味をシェリングの中から考えてみたいと思います。とはいえ、余りたくさんの文献にあたれた分けではなかったのですから、きちんとしたシェリング研究の観点からはきっといろいろ的はずれなのでしょうが、ま、そこはそれ、ご容赦ということで。。。