尾を振る犬のしっぽは切れない?

今回は読書会の記録から。Lacan, Seminaire XVII, "L'envers de la Psychanalyse"からp.183-186の読解です。珍しくちゃっちゃと記録していますね、我ながら。でも、ラカン本人の話はあちこち飛びまくっているので、こちらも合わせて飛びまくり、という点はどうぞご了承くださいませ。

さて、その昔読んだ小咄によると、インディアンの長老に税金というものを払うよう説得した白人さんがいたそうです。みんなでお金を出して積み立てて、必要なときに橋を造ったり学校を作ったり・・・そんな説明を聞いて長老がおもむろに一言。つまり、あれだ、ワシがこの犬のしっぽを切り落とす、そのあと、この犬にそのしっぽを食わせてやる、そんな話か。

なかなか言い得て妙、とつくづく思ったのは税金の還付金で「得をした」と思ったとき、ふと「ん、取られすぎてたものが還ってきただけだから別に得じゃないよね」と思ったときの記憶があるからでしょう。自分のものが取られて、その同じものが還ってくる。等価交換というと変ですが、この「同じものが還ってくる」だけのことが、人間の感情には思わぬ効果を及ぼします。

ラカンが、Un, trait unaireといった、主体がみずからを見出す徴、マーク、シーニュを見出した時点で、つまり言語の効果の中に捉えられて以降、象徴的負債を感じそのツケを払わなくてはいけなくなる、というのはこんな感じなのかもしれません。自分の徴なのですから、まあそれは自分と同じものです。自分のものを自分に返してもらっただけなのに、われわれはそこに何かの過剰、あるいは過小を見出してしまいます。ちなみに、ジジェクは象徴的去勢の意味をここに見出しています。インディアンの長老の犬をもじっていえば、われわれは父にペニスを取られ、そしてその同じものを返してもらうわけですが、そのことですでにそこには「何か損」「何か得」のどちらかが宿ります。前者ならヒステリー、後者なら強迫神経症、でしょうか。

みずからがみずからに折り重なることの不可能性、というと恰好いいですが、ま、ぶっちゃけ小市民のささやかな喜びないしはルサンチマンですね。

そういえば、生活保護を受けに来る人というのは、「国に取られたものを取り返す!」というファイターが多いそうで、本当に困っているひっそりとした人々は余り来ないのだそうです。この場合はヒステリーということ?かな。

さて、この同じものを返してもらうだけなのに生まれてしまう「何か得」「何か損」、ラカンはそこに剰余享楽という言葉をあてています。マルクスがこの元ネタとなる「剰余価値」という言葉を生み出したのは、資本主義、つまり等価交換が利潤を生んでしまう奇妙なシステムを考えるためでした。この剰余価値のシステムの中でこそ、あるいは剰余享楽は生まれるものなのかもしれません。みずからがみずからの普遍的価値を獲得するためにいったんみずからの外に出なければいけないこと、そして、そこからみずからへ回帰してくる際に、どうしてもその剰余が生じてしまうということ。この点で二つは同じロジックを抱えています。しかも奇妙なことにドイツ観念論的なロジックに付け加えた一ひねり、というロジックなのです。

「我思う、故に我あり」私はこの発言の意味を強引に自己流に換骨奪胎して奪い返すことで、ドイツ観念論は哲学の主流の地位を奪い返したと考えています。さて、この「我思う、故に我あり」にたいしてよくある非難は「我思う、故に我あり」と我思う、ゆえに我あり、と我思う・・・と無限にループするじゃないか、という話。ラカンはこれを否定します。「我は「故に我あり」と思うものとしてある」と思うものとしてある、と思うものとしてある・・・こっちのループだと。原文では Je suis ce qui pense ですね。このことは、セミネールの12,13巻における「私は考えないときに私は存在する」と「私は存在しないとき私は考えている」の対立を想起させますが、このへんの整合性あるいは発展をてみじかにまとめるには、もう少し勉強が必要そうです。ともあれここで大事なのは、前回のノートで記したように、考えるとは何か、ということです。「だから」それは、私が存在する、すなわち私がUn、反復されるみずからの記号を見出す、ということの事後的な効果です。「存在はこの1という徴によってのみみずからを確かなものにする、そのあとの続きはみんな夢」(p.183)とラカンはいいます。ここから考えると、この文脈では「我思う、故に我あり」と1の徴の反復とを関連づけることが目標になっているわけですから、大事なのは「我あり」としての1が反復されることなのでしょう。

さて、こうした1の反復、ラカンはそれを近代科学の誕生と関連づけます。近代科学は経験論者たちが主張するような、経験とりわけ知覚や認識から出発したものではない、とラカンはいいます。それはむしろ、(おそらくは1の反復によって)数えられるもの、可算的なもの、を勘定することから始まると。この1の反復を公理的に再構成することで、形式化されることで、科学は誕生したと。たとえば、耳や目。それは知覚したり認識したりする器官ではありません。なにかしらの波を捉え、それを勘定するものです。そしてその勘定にしたがって、情報(音、色他諸々)を再構成します。逆にその勘定さえ知っていれば、現実には存在しない音も光も作れます。

ちなみにジジェクラカンのかつてのサイバネティクス解釈、すなわち+と-をシニフィアンの二項対立においた考えを批判して、後年のラカンにならってこれは現実的なものと考えるべきだと主張します。つまり、それらは主体を欠いた、現実にはどこにも存在しない純粋なヴァーチャル、純粋な計算computationでありながら、物質的なものと、想像的なものを制御する、と。("Abyss of Freedom," p.63-4)

精神分析を科学とラカンが主張するのも、そのゆえです。(結構遠いし強引だとは思いますが。。。)精神分析も同じように、現実に存在はするがしかしそのステイタスが特になんということもない、というよりむしろ無意味なのでノイズとしか判断されえないような1の反復をもとに、その純粋なコンピューティングで人間が構成されることを考えているが故に、科学できなのだ、と。

やれやれ、強引に話をまとめてみました。でも、相変わらず脱線の多い先生です。たかだか3ページのことなのに。。。