同じものが還ってくる


読んでいる人がいるか定かではない(というか多分いない)記事でも、公共の場で書くからにはある程度普遍的に役に立つなり(まあ実は無意味であっても)楽しいなり(まあ滑っていたにしても)、そんなものであるべきだとは思いますが、今回はちょっとラカニアン固有にマニアックです。お許しくださいませ。

さて、同じものが還ってくる。ラカンによればそれは現実的なものの定義です。ラカンのたとえではそれは、惑星の運行であったり、まあそんなごくごく当たり前の話でした。セミネール2巻の段階のラカンがなぜそんなことをいったのか、ちょっと難しいところですが、あるいは「存在と時間」のハイデッガーの影響ではないかと思えなくもありません。

さしあたり、それはおいておいて、われわれは前回、同じものの回帰、という言葉を、この文脈をまったく意識することなしに使っていたのでした。いや、自分でも気づかなんだい。。。
でも、だとすると、もしかして自分自身と同じものが回帰してくる、というのは別の意味を持っていたのでしょうか。わたしの当初の意図には、同じとはいうもののそれはドイツ観念論的に、即自的なものが対自的なものに、そして即自対自に、というモデルが背景にありました。ラカンにおいてもおなじことです。現実的な私が象徴的なものにみずからを明け渡し、それをおのれとして引き受けること。つまるところ、普遍的な価値への投企と、そこから返ってきた返事としてのおのれの価値をおのれのものとして引き受ける、そんなモデルです。

でも、もし、そこにそんなレベルの差を考える必要がないのだとしたら。質的な差があるのかないのか、それはさておきましょう。少なくともそれらは始めから同じものとして認識され、そして同じものの回帰として引き受けられていた。そして、その「同じ」という性格の故に、それが現実的なものとしてのステイタスを手に入れていたのだとしたら。そして、この「現実的なもの」という性格のために、それが生み出したある種の不可解さが、象徴的なものと現実的なもの、普遍的なものと個別的なものという区別を事後的にもたらしたのだとしたら。

とりあえず、いかなるレベルの差異、質的な差異も放棄しましょう。問題なのは、単に何かが同じものとして認識される、いやより正確に、同じものの回帰として認識される、という瞬間がある、ということ、これをまず措きましょう。そうすると、その瞬間からこれはいわゆる「現実的なもの」として機能しはじめます。とはいえ、この段階ではそれすら「現実的なもの」という質的評価をすることはやめておきましょう。

で、それはどのようにして測られるのでしょう。それが、くだんの不可解な残余、余剰です。つまり、同じものが同じところに還ってきた、にも関わらずそこに何か過剰なもの、あるいは過小なものが残る、ということです。この瞬間に、くだんの「同じものの回帰」は現実的なものとして機能しはじめます。しかしそれは、二つの象徴的なもの、同じものが同じところに還ってきたこと、にもかかわらずそこに残ってしまうずれ、という、その残響としてしか聞き取られえない現実です。

さしあたり、そう考えることのメリットはなんでしょう。まず、象徴的とかなんとか、そのような普遍的なもの、理性的なもの、言語的なもの、社会的なものほかもろもろを一方に置き、他方に生の現実を置く、この二つを前提に、現実存在が理性存在となって還ってくるドイツ観念論アヴァンチュールないしはビルドゥングス・ロマンをあてにしなくてもよくなった、ということでしょう。

必要なのは、同じものの回帰だけ。そして、その回帰が必然的にもたらすずれだけ。あとは、そこから象徴的なものと現実的なものが二つながら事後的に生成されてくることになります。つまりは、何かが「同じ」というネットワークの連鎖の中にさえ入ってくればいいのです。

そうすると、問題になるのはこの「同じ」ということと「ずれ」ということ、この二つになります。更にいえば、この二つがまた同じことの根から芽生えた二本の枝であるような論理を考えねばなりません。ジジェクが前回紹介した箇所で述べていた、純粋にヴァーチャルなもの、その純粋な空虚、それが、同じということとずれということを両方もたらしてくれるのかもしれません。絶対の差異と同一性とが、その純粋な空虚から生まれてくるということ。

哲学史的には、「存在と時間」のハイデッガー、日付というきわめて通俗的な、バナルなものと時間性という深淵とがなぜ出会ってしまうのか、を考えていたハイデッガーを念頭に置きながら、考えていました。もしかしたら、この純粋な空虚、という点と、そこから生まれる同一性と差異性、そのあたりからシェリング的なアプローチも可能であるかもしれません。そのへんは、また後日。って、この後日はちょっとずいぶん先な後日になりそうですが。なんかこう、日暮れて道遠し、という感じです。