模倣の法則

鉄は熱いうちになんとやら、ともいいますので、ちょっと読む機会があったとあるテクスト、早めにまとめてみたいと思います。というか・・・最近物忘れが凄い早くなって・・・

くだんの論文は

Eric LETONTURIER, "Gabriel Tarde, sociologue de la communication et des reseaux", in Cahiers internationaux de sociologie 2000 - vol. 108, pp.79-102

です。どうも著者さんの博士論文の一部のようですが、定かではありませぬ。
表題の通り、フランスの社会学ガブリエル・タルドの再評価を、「ネットワークの思想家」として行おうというものです。タルドに関しては大村書店から近刊予定の「模倣の法則」の紹介ページにその現代的意義を含めたとても良い紹介があります。
http://www.comk3.co.jp/ohmura/kinkan2.html


さて、くだんのルトントゥリエ(でいいのかな?)さんの論文は、タルドのいくつかのキーワードを要領よくまとめています。ぶつぎりに解説が並ぶのではなく、さらにそれらの相関関係を含めてなめらかに紹介が続いていくのもいいところですね。もっとも、このあまりに広大というか大風呂敷というか無手勝流な、19世紀人というより18世紀か17世紀かのフランスに先祖帰りしたような、そんなところまでフォローはしきれませんが、それはしかたのないところ。

さて、そんな著者のまとめにしたがって、てみじかにタルドの紹介を。

以前、研究室のネットワークを管理していたころのこと。説明に苦労したのは、ネットワークと共有という概念です。物理的にはこのマシンの中に入っているHDDとそのデータ、ネットワーク化してフルアクセスを許可していたら、「このマシンの」HDDという考え方はもう成立しません。スタンドアローンなマシンを個人とすると、ネットワークのなかのマシンはいわば脳内の記憶を共有していることになります。ある意味では私は人の脳を所有し、また人に脳を所有される、とも言えます。そのうち出るプレステ3も採用するという、CPUそのもののネットワーク化、分散コンピューティングも含めれば、さらにその方向が全面的になることになります。タルドは、このような概念を「所有」と呼んでいます。ちなみに面白いことに、タルドは社会とは一つの脳である、とはっきり言っていますね。そして個々人の脳は細胞celluleだと。プレステ3のCPUもセルと呼ばれているそうですが、是非是非ソニーIBMに教えてあげたい話です。

http://pc.watch.impress.co.jp/docs/2002/0325/kaigai01.htm

ちょっとふるい記事ですが、セルに関してはこのへんがまとまりがいいですね。


タルドは、ライプニッツを受けて、モナドジーという概念を提唱しました。でも、ライプニッツモナドに窓がない、つまり相互影響を及ぼすことはありません。対象的に、タルドモナドたちは、相互に「所有」を行います。ですから、タルドモナドを提唱したのは、むしろ今風にいえばサーバ・クライアントモデルに(広義の)分散処理システムを対置させるような意味合いが濃厚です。ご存じの通り、分散処理の場合は、すべてのコンピュータが等価です。タルドモナドのニュアンスはそこに置かれています。ですから、所有といってもだれかが誰かを奴隷のように全面的に所有するということではないのです。

では、この場合に相互が何かを所有しあうとして、それは誰が何の為に、という疑問が出てきます。タルドは、それぞれのモナドは差異を取り交わすのだ、といいます。それぞれのモナドは、それぞれがそれぞれなりの独自のネットワークをもちます。精神とは、それらの独自のネットワークの集合態の地図のことですし、この意味で、モナドたちはむしろ自分自身になるために他のモナドと交流する必要が生まれてきます。そして、この他のネットワークへの参加の欲望、それが生まれることをタルドはinventif、創発性という風にいうのです。

さて、こうして他のネットワークと結ばれ、自分自身にしかない独自のネットワーク網を持つようになると、今度はその情報をまた人様に流したり、あるいは人様から情報を頂いたりしなくてはいけないことも起きてきます。先ほどちょっと触れたタルドの主著「模倣の法則」の模倣とは、このあたりを扱っています。

この模倣、タルドのちょっと後輩にあたるデュルケムが「自殺論」で、人間大事なことを人まねしたりしないしそんなこと根拠ないから、といったのは有名な話です。ですが、タルドの模倣というのは、誰かが誰かの真似をしてそっくりになる、というような話ではありません。この種の模倣はある意味で実体的な意味での主体、あるいは「存在」という観念を前提にします。

タルドモナドたちは、このような意味で、模倣によってお互いがそっくり鏡写しのようになっていく、そんなイメージでは考えられていないようです。イメージとしてはP2Pでの情報の伝播のほうが近い。つまり、諸個人の創発性が、近傍関係にしたがって、その経路にあるネットワークのリソースを拝借しつつ伝達していく。その間コピーはもちろんその経由ルートの各マシンに残るわけです。これも広義の模倣。あるいはもう少し日常的なモデルでいえば口コミやうわさ、でしょうか。聞いた話を誰かに話す。これも模倣です。だからといってその話に自分がすっかり染まってしまうといいたいわけでも、話してくれた人と自分がすっかり同じになってしまう、なんてこともないことはみなさんご存じの通り。問題なのは情報自体が流れを持つことであり、そのネットワークの一端を担って情報を伝言ゲームしていくことで、ネットワーク自体も広がります。で、その結果自分は新たなネットワーク系列とも交錯するかもしれない。でも、情報元のそっくりさんになってしまうわけではありません。


ついでにいうと、タルドは歴史的事実というのもこのようなネットワークの流れで説明しています。すべての歴史的事実は複数の諸条件の偶発的な産物です。逆にいえばすべての現実的諸事件はネットワークのなかにあるもので、そこから孤立したものが歴史の中から消えていきます。ですから、可能性としてはすべての事件が等価値であり、それが現勢態に、現実化に移行する過程で、その濃度の差が出てくる、というところでしょうか。でもこのあたり、なんかWinnyほかのP2Pでのファイル流通のイメージによく似ていますね。


さて、以上駆け足でタルドのレジュメ論文のそのまたレジュメを作ってみました。古典的主体のように閉じた主体でもなく、逆に情報学の影響下にある構成主義のように全面的にネットワーク内の情報の受信・発信の点に還元するわけでもない、微妙なバランスをお楽しみ頂ければいいのですが。