神の箱庭療法

「神の芸術療法」とシェリングの「世代」論を評したのは「仮想化しきれない残余」ジジェク。日本人なら「神の箱庭療法」でしょうか。いや、しかし、ジジェクが夢中になるのも無理からぬところ。なにせ、シェリングの神様は少々マッドな奴で、おのれの狂気を解消するために人間を創造した、というのです。ジジェクならずとも大喜び。もちろんわたしも。なんてマッドな哲学でしょう。

もちろん、人間の創造によって、おのれの悟性の結実たる言葉を外的に(ハイデッガー風にいえば、おのれの外に立つ=実存する、ということになりましょうか)実存させ、それがおのれの狂気を御しにくることで、神はおのれの狂気を再び理性に一致させます。

ここで可哀想なのは人間のほうで、不幸なことに神の場合この言葉と狂気が再び結びつくことは必然なのですが、人間の場合どうもそうではないようなのです。
シェリングは、そこに人間的自由と、そして人間の悪への可能性を共々に見て取ります。いってみれば、神の狂気と神の言葉と、よく分からない二つの玩具を与えられ、なすすべなくそれをいじくり回している子供達としての人間。


ちょいとパロディー混じりに解説すると、こんなかんじでしょうか。1809年の「人間的自由の本質」以降のシェリングの努力は一貫してこの神の狂気と理性の相克から生成される世界と、そしてその生成の過程から導かれる独自の時間の生成論ないしは歴史性の論理の確立に向けられています。もちろんシェリングは神の狂気とは言っていません。。。ハイデッガー「シェリング講義」での解説を借りれば、それは自然、機械的な法則性、といったものと、自由にして自然から独立した主観、そんな対立を生成論によって解消しようとした、とされています(134-6)。


もちろんそれは、表題通り、「人間的自由の本質」というテーマ、そして、悪というテーマをあまりに正面から捉えたが故に生まれた立場と言っていいでしょう。中学生くらいになれば誰でも一度くらい「神様がいて何もかも上手くやっているんなら俺たちは別に自由じゃないじゃん」とか「神様がいるのに何で世の中には悪があるの?」とか、考えたりしますよね。このテーマに向かって、シェリングは直線的に突っ走っていきます。そしてそのテーマの追求は、後期のシェリングにおいて神の根底と無底、つまり神の抱える混沌と、そこからの世界の析出の根拠あるいは無根拠さについての困難さへと彼を追い込むことになります。著作としてはこの著作を最後にシェリングは40年ほど、講義と草稿を除いては一切の著作を残さないまま、亡くなります。なんだかシベリウスの沈黙を思い起こさせる、この沈黙。


次回からは多分3回くらいの予定で、簡単に「人間的自由の本質」「世代」「哲学的経験論」「近世哲学史講義」あたりをまとめてみたいと思います。