ただ憧れを知るものだけが

「重力は光の永遠に暗い根底・・・としてこれに先行し、光(実存者)が上れば夜のうちへ逃れ去る。光ですらもそれを閉じ籠めている封印を解きおおせない。」

かなりポエティックなこの発言、これはシェリングの「人間的自由の本質」の一節(岩波文庫版59ページ)です。神の実存の根底、とシェリングは言います。万物は神の自己顕現としてあるのだが、しかしその神自体もおのれに似たものを、すなわち自由な存在者を通じてのみみずからを明らかにすることが出来ると。しかし、そのことで、みずからの根底として自然、すなわち神のうちの自然die Natur in Gottを保つことになります。冒頭に掲げた引用箇所は、その神の内の自然としての根底を描いたものです。

とはいえ、誤解してはならないのは、ある意味狂気の自然を抱え込んだ神がおのれのうちの悟性の光を・・・というような、時間的な継起に並べてしまうこと。実際には、実存としての(まあ、われわれが普通に思い浮かべる理性の神、ということにしておきましょう、一時的に)神が実存しなければ、この根底もあり得ません。ですから、ある意味でこの二人の神がジキルとハイドに分裂する以前の何か、としての神があったはずなのです。

シェリングはこう言います。

「永遠ある一者が自己自身を産まんとして感ずる憧憬(Sehnsucht)である、と言ってもよい。」(61)
なんとまあ、神様が憧れを。そういえばただ憧れを知るものだけが、っていうチャイコフスキーの歌曲がありましたが、あれはゲーテのヴィルヘルム・マイスターからでしたね。シェリング、この早熟の才子が大学で講義をもったのは23のとき、たしかゲーテ他の強力な推薦もあったはずです。

「決して割り切れぬ剰余であり、・・・分解して悟性とすることができずして永遠に根底に残るもの」(62)
そう、この根底のうちに生じた「未知な、名前もなきよきものを求める」(63)は、光を発し、神の内に一つの表象を生み出します。神が自己自身を一つの写像としてみるところ。「この表象は同時に悟性−かの憧憬の言葉である。」ともシェリングは言います。そして、人間の意志とはこの憧憬の萌芽だと。この光と闇の出会いの舞台、それが人間です。神は自然の中に言葉を発します。発された実在的な言葉は光と闇との統一にのみ存し、そしてそれは人間においてのみ発されるのです。人間のおかれている位置は、この光と闇、善と悪との自己発動の源を平等に含みます。その二つの紐帯は自由な紐帯です。この意味で、人間は分岐点に立っています。しかし、人間はその未決定から踏み出ることが出来ない、こともあるのです。

さて、問題はなぜ神がこのようなものでなくてはならなかったか、ということです。シェリングは言います。万物は神から分かたれてあるためには、神と異なったある根底のうちで生成しなければならない。しかし何者も神の外にはあり得ない。この矛盾を解くには

「万物はその根底を、神自身のうちにおいて神自身でないものに、すなわち神の実存の根底であるものに、有するということによってのみである。」(61)
そう、この神自身のうちにおいて神自身でないもの。このステイタスの曖昧さはどうでしょう。論理的な困難は、至る所に逃げ水のように逃れ去りながら拡散していきます。神自身でありながら神自身でないもの、それを神の根底と神の実在という二つに回収しようとしても、今度は先ほど述べたように、その分裂以前の何か、をある意味根源的な存在者として必要とすることになってしまいます。ここでその存在者を、憧憬の言葉の発される瞬間、として、むしろ存在というより行為という観点から置き直してみようとしても、その「割り切れぬ剰余」「未知な、名前もなきよきもの」という残り物が残されることになります。

シェリングの有名な「無底」という概念はここで、この根源的存在者を表すものとして登場します。それは、元底Urgrundあるいは無底Ungrundと呼ばれてもいい、とシェリングはまず述べます。つまり、これはあらゆる対立に先行するもの、であると。しかしそれは、対立する両者の同一性Identitatとしては言い表せない、両者の絶対的な無差別Indifferenzであるとも(145-6)。その性格としては、なんらの述語も有せず、あるのはただ無述語性のみなのだが、にもかかわらず、それは無ではない。

シェリングはまた、この無底を愛であるとも言い換えます。愛とは

「各自が各自だけでも存在し得たであろうがしかもそうは存在しないで、他者なしには存在し得ない、というようなそういうものを結合すること」(148-9)

シェリングは定義します。この根底と実存もまた同じです。この根底と実存とが現れたが故に、また同時に無底も生まれてきてしまうわけですが、それは、この言葉、愛の言葉、憧憬の言葉なしには二つに分かたれたままであったろう根底と実存の両者、「無底である限りそのうちで同時的に存在することも一であることもできなかったかの二者が、愛によって一とならんがため」なのだと。

こうして、シェリングは一応は、この壮大な神話的説明に終止符を打ちます。しかし、ここで解消されえない問題として残るのは、この無底、実存、根底それぞれが産み落とされる際の時間的、あるいは因果的関連の錯綜です。根底と実存の分かたれることで生まれる無底、しかしその無底の中には根底と実存が分かたれて一つになることもないまま存し・・・

ですから、それだけになお、そもそもの始めに立ち返って、シェリングの課題、自由を考えてみなければなりません。シェリングは言います。

「すべての物の、そして特に人間の叡知的本質は、この論によれば、あらゆる因果的連関の外にあり、またあらゆる時間の外または上にある。従ってそれは決して何らか先行するものによって限定されてあることはできない。」(105)

シェリングが立ち向かうことになる観念論の伝統がそこにあります。このなかで、自然を支配する因果律と自由な主体とを、まったく別個に切り離してしまうのか、それとも人間的自由をも機械的な因果論に押し込めるのか。シェリングの抱える困難は、この両方を拒否したことにあります。人間は自由なのか、予定があるのか。シェリングはどう答えを出すのでしょう。


シェリングはこう言います。

「人間は今ここにおいて行為するごとくに、永遠からまた既に創造の元初において、行為したという意味においてである。」(112)
さて、なんのこと?その少し前の箇所で、シェリングはこう書きます。

「ただ彼のみが自己を決定することができる。しかしこの決定は時間のなかに落ちてはならない。・・・人間は、時間の中に生まれるのではあるが、しかも創造の元初(中心)のうちへ創り出されているのである。時間の中なる彼の生を限定する行は、自身時間には属せず永遠に属する。」(109

そう、シェリングはこの問題を、因果性という理屈を支える時間概念そのものの問い直しによって解消しようとしたのです。

シェリングは、この感じをちょっと感覚的なたとえで表現しています。現にあるものが、あらゆる永遠よりしてすでにあったので、けっして時間の中において初めてこうなったのではない、というような感情、と。

ハイデッガーは、「シェリング講義」のなかで、それをこう説明します。順序よく並んで継起していく時ではなく、過去と未来と現在とがぶつかり合ってきらめきを発する、その瞬間「本来的時間性のこのひらめき、つまりこの瞬間こそが永遠の本質」なのだ、と。少し別な文脈で、ではありますが、ハイデッガーはまた「本質的な歴史空間、ということはつまり可能的な歴史空間とその広がりを打ち開くこと」(336)という言い方もしています。そして、またいずれ見ていくことになりますが、シェリングは引きつづき「世代」と題された遺稿で、この時間性の論理、歴史性の論理を更に深めていくことになります。