時代はまわる?

「本質が内包された時間を保持しているが故に、人は最も古い過去も、最も遠い未来をも同様に直接的に結び合わせることが出来るのである。」(114)

さて、前回のさいごにわれわれは、シェリングがその自由論から、神の生成、そしてその生成に伴う時間性の出現というふうに思考の歩みを進めてきたことに触れました。で、今回はそこを中心に扱った「世代」論を考えてみましょう。Weltalter, 世代論という訳が一番通りがいいようですが、このへんは専門ではないので自信がありません。内容からいくと世界の年代、でもいいかも、という気もするくらい、神話的な年代記っぽい感じもある論文です。テキストは、安直に英語版、ジジェクの"Abyss of Freedom"に一緒に訳出された版、1813年の分を。ああ、ドイツ語真面目にやっておけばよかった。


シェリングは、根底と実存へと世界が分かたれていく、その生成の歴史性ないし時間性を、単なる順序よく並べた時間的継起の連続に還元しないかたちでの説明を必要としていました。それは、人間の行為の自由を考える上で必要だったのです。人間的自由の本質から言っても、その行為の瞬間は時間の中に墜ちてはいけません。それは機械的な因果関係に取り込まれてしまうからです。さらにいえば、神が順序よく世界を、根底から実存へとむけて作ったということになってしまうからでもあります。そうすると、この移行への契機が何であるか分からなくなります。ですから問題なのは、二つの無根拠、つまり、一方では根底から実存への移行をもたらす憧憬と愛の言葉を、他方で根底と実存が分かたれる以前の何か、を、一つに重ね合わせ、その一つ、「一者」の運動として問題を捉え直すこと。それは結果的に、時間性の生成にもつながるものとなります。

シェリングはまず、その最初の何か、を永遠と捉えた上で、こう言います。

「測りがたい、先史的な時代はこの本質の中に残っている。神聖なる過去の宝を誠実に守ってはいるが、この本質はそれ自体としては寡黙で、おのれの内に内包されているものを表出することは出来ない。実際、それは他者に随伴されることでしか決して開かれることはない。そして生成の過程にそれ自体として入っていくことはない・・・そこに埋められていたのはすべての事柄の記憶であり、その根源的条件であり、その生成とその意味である。」(114)


では、その永遠がどうして、実存と根底という動きを辿ることになるのでしょう。シェリングは引きつづき

「あらゆる永遠は、そしてその中にあるすべては、みずからの中にあることを願い、そしてまったく同時にみずからの外にあることを願う。」(123)

と述べます。これは矛盾している二つを同時に永遠が抱え込んでいる、ということなのでしょうか。さしあたり、シェリングは矛盾(実存と根底)を時間的な運動、無矛盾を永遠、と説明したあとで、矛盾律をこういって無化します。それが表現可能なものとして矛盾であるのと、実際に表現されたもの、とでは違うのだ、と。つまり、潜勢的であるものには矛盾律は適用されない、ということです。ここでわれわれは、可能的であるものの定義があることもあり得ないこともあり得るもの、であったことを想起してもいいでしょう。逆に、永遠の側には、主体と客体の区別に対する絶対的無関心absolute Indifferenzが絶対的に最初のものdas schlechthin Erste、とシェリングは言うのです。無関心さ、あるいはそれは無を意志することでもある、とシェリングは続けます。

「無関心こそが絶対的始源」(132)あるいは「みずからを把握しない純粋な自由そのものであり、なにも考えない=無を考える平静さであり、その非存在のなかで享楽しているrejoiceしているもの」(135)

こうして、シェリングは、純粋な自由がそれ自体では無である、と主張するにいたります。


このあと、シェリングはこの否定と肯定の意志のさまざまな様相について錯綜した議論に足を踏み入れることになります。その必要性がどこにあったのか、それはまたいずれ別の機会に取り上げなければならないテーマ。ここでは、さしあたり、この純粋なる無関心、無としての自由とされた永遠に対する考察の方を追っていきましょう。シェリングは、否定する意志でも、肯定する意志でも、その両者の統一体でもないなにか、そこに神の自性、私としてのI、を見出しています。あるいはそれは無数のI-hood(これ、原語がなんなのか心底知りたいところです。探さなきゃ)として神的なものとして活動もしています。しかし、このあたりから、シェリングの説明はそれと明示してはいないものの、神の物語から人間の物語に微妙に重心を移しつつあるように思えます。無数のI-hood、それは人間ではないでしょうか。逆に言えば、神の永遠が時間性へと流れ出して行く、そのためにこそ人間と、そしてその人間が自由であることが、必要となるのです。

例えばシェリングは、

「誰も性格を与えられたものはいない、しかし自分で生み出した特定の性格を自分で選んだものもいない、ということはよく知られた事実である。熟考も選択もここにはない。そして誰しも性格を永遠の(止むことのない、常なる)行為deedと認識し判断する。そしてそれと、そしてそのあとに行われる行為とを共に帰す。普遍的道徳判断はこのようにして、すべての人間は明示的な考慮も選択もない自由を人間が持っていることを知る。この自由はそれ自体は運命であり必然性である。しかしおおかたの人間はこの深淵のようにわれわれの前に口を開く自由を前にして尻込みする。」(175)

と、このあとに述べています。この、絶対的な無関心そのものとしての自由が、ある行為によって、矛盾として動きだし、人間を、性格を持った人間を生み出します。このあとにシェリングが述べることは決定的です。

「しかし、この生き生きとした自由のうちに投げ込まれるやいなや、この行為は無意識の夜の中に沈んでいく。一つの行為が何かを生起させそして停止させることができるのではない。絶えざる、決して止むことのない行為がそれを可能にするのである。おして結果的に、それは決して二度と意識の前に引き出されることはない。」(181)


ここで、われわれが考えなければならないことも、困難の頂点を極めます。われわれが直面する、永遠としての自由、その深淵すなわち無底、それは常にわれわれの前に、永遠に、存しています。そしてその永遠は常に選び取られています。しかし、その選択がおこなわれた、行為がおこなわれた、決断がなされたという事実のどれ一つでさえ、この行為によって生まれた根底と実存の分離、そして根底の沈殿に伴い、意識の中に浮上してくるものではなくなるのです。こうして根底の中に沈んでいったものは、過去として活動することになります。しかしそれは、同時に別の未来に実存することになるであろう、別の現実性の根底として機能もしているのです。

こうしてわれわれは、シェリングの独特の時間性の認識に到達します。シェリングは言います。

「過去は明らかに現在としては同時に現在であることは出来ない。しかし、過去としては、確かに現在と同時的である。これは未来においても同じく真であることを見て取ることはやさしい。このように、最高のレベルに増していった矛盾のみが永遠性をうち開き、時間の完全な体系を閉ざすことが出来る。これが、決断がなされたときに起こったであろうことである。」(174)

一つの永遠が、人間と出会います。人間は、決断をすることもしないことも可能なその時間外の空間の中で、決断をします。そして、その決断が起こった瞬間、それが「深淵のように口を開く自由」とわれわれが直面した瞬間なのです。ここで、一つの永遠が、つぼみが花弁が三つにひらくように、三つの時間的契機へと開かれていくのです。シェリングは言います。

「このような形で始まりは可能になる、始まりであることを止めない始まり、真に永遠なる始まりが。」(182)

このあと、シェリングの努力はこの「最高のレベルに増していった」矛盾とは何なのか、あるいは「永遠」と「矛盾」との様相、それを確定することに向けられることになります。この文章の中でも既に予兆はあります。たとえばシェリング

「存在の同時性の原則は生成の継起性の潜勢力potencyである。」(177)
「潜勢力の継起は時間の継起として活動する。」(178)

と述べています。このpotency、その様相を確定すること、この見方を中心に引きつづき、後期シェリングの著作を検討していきたいと思います。

参考までに、ジジェクはこのシェリング論のなかでこう書いています。

「永遠性それ自体が、自分を巻き込んでしまった行き詰まりを解決するために時間を生じさせる」(30)

そう、ではそれを巻き込んでしまった行き詰まりとはなんなのか。シェリングはそれを探求する中で、またしても困難に出会うことになるのです。私見では、残念ながらそれは見事に解かれたとはいいがたいものです。しかし、それでも次回は、そのシェリングの努力をわずかなりともくみ取ってみたいと思います。