イマジン

Imagine there's no woman、「女なんていないと想像してごらん」という、ちょいとびっくりするようなタイトルで、コプチェクの2002年の著書の邦訳が出版されました。

もちろん、元ネタはジョン・レノン。Imagine there's no heaven... という一連の歌詞から。でも、 Imagine there's no woman、っていわれたら、そりゃあんた、当然おかげでliving life in peace...ってことになろうさ、と浮かんでしまう自分もどうかと思いますが。。。

さまざまな点で有益な示唆的なこの本、まとまった話はまたいつか出来れば、とは思います。映画論、女性の超自我、といったおそらくコプチェクのもっとも得意とするところも十全に展開されているこの本、オリジナリティある重要な箇所は少しゆっくり読んでいくことにして、今回は微妙な揚げ足とり。

「愛において二者はなく、一者と一人の《他者》、あるいは一者と対象a」というラカンセミネール20巻の最終ページ。コプチェクは第二章末、116ページで引用しています。今回は、そこに関連させつつ、前ふりとなる小ネタを。

さて、我々は前回までのシェリングの考察にならって、一者から主体と《他者》、つまり二者が析出していく契機を考えてきたのでした。でも、この析出の契機、男性用と女性用を考えることが出来ます。ですが、今回はあんまり真面目な考察ではなく、あからさまに小ネタ。

「女は作られた性」というボーヴォワール先生のお叱りに、「いや男だって作り物だから」とは、男性学の隆盛などもありまして、今では結構みなさん分かって頂けることかと思います。何かちがいがあるとすれば、まあ必ずしもそうは言えないかもしれませんが、おおむね男たちはこの「作られた」男性の規範に忠実です、というか、そのためなら死んでもいいってくらい忠実で、それが自分のアイデンティティであることを疑いません。もちろん、自分たちで都合のいい規範を作ったんだから喜んで引き受けて当然でしょ、というご指摘もあろうかとは思います。

でも、じゃあ女性陣に、我々男は一切手を出しませんから、どうぞみなさんでみなさんの規範を決めてください、といっても、たぶん無駄なこと。それは女性に規範意識が薄いということではありません。あの人たちはたぶんオーダーメイドの規範以外受け入れられないのです。その点男たちは大量生産品。みんな同じようなものがぞくぞくと生産されますし、男たちはそのことが居心地よく嬉しそうです。むしろ、押しつけられたアイデンティティを嬉々として引き受ける種族を男、自分は「それ以外のどこか」にいると主張するのが女、と規定してみたくらいです。

もちろん、反証も簡単。性的規範に関しては男性の性倒錯の多さは女性の比ではありません。逆に、特に思春期の女の子たちの間に見られるような、あの微妙にして濃厚で息苦しい、模倣の強制。グループの中ではみんなおそろい。みんな一緒。一人にされるのは、そりゃもう致命的。自分が何か違うものであることを望むようには見えませぬ。

これに対しては、明示的な規範を持たない、つまり象徴的な体系が薄弱であるが故に想像的な模倣の圧力があり得ない、コントロールを欠いた状況でのしかかってくるのではないか、という反論も可能ですが、今ひとつ説得力に欠けます。やはり、問題はもっと根本的なところに置いた方がいいような気がします。

そんなわけで、われわれはシェリングに見られる主体の析出論をちょっと考えてみましょう。欲動の混沌と、超越論的な規範としての理性、この理性が混沌をコントロールする、というわけですね、思いっきりいい加減に簡単にいうと。ですが、その二者は事前にそれとして存在しているわけではない、むしろ、純然たる無関心、否定としての一者があり、それがある種の偶然によって二者に分割を引き起こす、そういう展開になっているはずでした。誤解を承知で簡略怠惰なバージョンを作れば、生き物としての自分と規範意識を持った自分、その二者の分割を引き起こすには、じつはワンクッション必要だ、ということです。

問題は、このワンクッション、つまりこの分割の瞬間をどう処理するか、そこに二つのやり方があるのではないかということです。シェリングモデルはあからさまに男性モデル。それは、その後生まれた、混沌と秩序とに分裂した主体を、秩序から混沌を制御する形で再統合することで、この原始偶然を無化するというものです。ここで、この原始偶然を引き起こした原初の行為は無意識の闇に沈んでいきます。

シェリングによれば、愛とは、このような二者を再び結び会わせるためのもの、ということでした。ややこしいのは、この二者それ自体が、愛の言葉によって生まれてきたものでもあるという点。つまり、愛は自分の存在条件(二つの別々のものがある)およびその目的(その二者を結び会わせる)を自分自身の行為のあとから見つけだしてしまうものだということです。時間的流れの中にある意識にとっては、ですから、二者を結び会わせる、ということが愛。これは完璧に能動的な意志による行為です。でも、実際にはその意志そのものが行為のあとに生まれた来た、という時間的な逆転現象が同時に存在します。で、その行為、原初の行為そのものは、こうした時間的流れに整理されることで、可哀想に無意識の闇の中に。

この小ネタで提示してみたいのは、女性はこの原初の亀裂の方に同一化するのではないか、ということです。いや、そういうと美しいですが、日常生活の中で一番想像しやすいのは、ヒスを起こした女の子が「そうよ何もかも私が悪いのよ、私さえいなければ何もかもうまくいくのよ」と、逆シンデレラになってしまうあれです。誰しも思うことですが「本当にそのとおりだが、おまえがそのことから快感を得ているのはなお気に入らない!」

ちなみに、私の知り合いの女の子、いかにも女の子女の子したその子は、「お父さんが私のことを好きで、そのせいでお母さんの視線が怖かった」という話をしてくれたことがありますが、これも同じ。父母の間の調和した一者、そこに生まれ落ちたわたしが父を堕落させ、わたしに心を寄せるようになったが故に、この世界に亀裂が走った、というところでしょうか。このときも、あの享楽の表情は忘れがたい印象があります。

ここで、女性にとっては、愛のモデルは一者と《他者》。この場合の他者とは十全な他者ではなく、この罪の父、堕落した父、私を愛したが故にこの世界の調和に亀裂を入れてしまった、斜線を引かれた他者としての《他者》。この場合の厄介なところは、「わたしがこの亀裂を埋めてあげる」とはならないところ。だってヒステリーだもの。埋まってしまったら自分を構成する偶然性が無くなってしまいます。それだけが彼女の成立の原因、アイデンティティなのですから。


でも、この男女のアイデンティティは、残念ながら完結的、自足的なものではありません。男性モデルの場合、自分が自分に折り重なるということ、それ自体の不可能性が、その原始偶然の余波のために引き起こされてしまうのです。同時に、ひとはその原始偶然の痕跡、それを自分の感性の相補として持つことになります。対象aですね。ですから、男性にとって女性が対象aであるというのは、つまりは愛において存在する片一方のバージョン、一者と対象aのモデルがここにあるということです。この折り重なりの不可能さ、それを象徴的去勢と呼ぶ、ということは、以前に触れました。シェリングの説明では、根本矛盾、それは己を構わずにおけばそれは無、なにものでもなく、己自身を引き取ればそれはある他者となる、という点にある、ということになっています。「近世哲学史講義」(細谷貞雄訳、福村書店、1950)162ページですね。ついでにいえば、その回収が不可能というのは、そこに理性や思考の限界があるからではなく、そもそもその回収の身振りそのものが己の分割を生み出したが故に、その身振りそのものが、回収することが出来ない余剰として残ってしまう、ということです。先ほど愛の時間の逆転現象として記述したように。そんなわけで、対象aとは愛の対象になるわけなのです。男にとっては。

では、女性にとってはどうなのでしょう。この自分自身を亀裂、虚無におくこと、題名通り「女なんていないと想像してごらん」とすること、それが女性の持つ力として、コプチェクがくだんの著書でオマージュを捧げたところでした。特に第四章。ですが、問題は、私の読む限りコプチェクが触れていないこと、つまり、それが絶望的な恐怖や不安を引き起こすこともあるのではないかということです。そんなわけで、ラカンセミネール第20巻の性別化の公式でも、女性の愛の対象は《他者》とファルスとに分かれているのだと。しかし、この場合のファルスは、女性の直面するこの亀裂のシニフィアンです。無を表象するのがファルスのシニフィアン、という古典的ラカンモデルから、ここでラカンは一挙に離脱します。シェリングもいうように、それが表しているのは「非存在の享楽」でもあるからです。ここで、ファルスは空虚のシニフィアンであると同時に享楽のシニフィアンでもあることになるのです。


ここからは、まとまりが悪いのでメモ程度に。

女性が想像する非存在の享楽、それは、男なり女なりという二者が生まれてくる前、二者に分かたれる前の、一者、Unの享楽でもある、ということを我々はシェリングを理解した今は受け入れることが出来ます。この一者の享楽とは、アリストファネスの神話のような、一つになることの享楽ではありません。絶対の無関心、非存在の享楽です。永遠、あるいは絶対の自由。この自由が、原始偶然によって、あるいは憧憬の言葉、愛の言葉として、無底として、その自由の中に人間を投げこむことになります。一者から二者へ。実際に女性が手に出来る、亀裂としての無、その非存在の享楽は、残念ながらこの原初の、永遠の自由としての享楽ではなく、父の堕落、という世界の亀裂の享楽のようではあります。

しかし、女性がここでなるものは、ある意味で歴史的で、偶然的な亀裂です。いわば、原始偶然のその偶然の瞬間に対する、ほとんどフェティッシュ的なといっていい、その瞬間です。対象的に男性は、その偶然の瞬間を女性を愛する瞬間にのみとっておくことが出来るもので、自分は残念ながら、ステレオタイプな理性の規範に支配される存在であろうと四苦八苦。まあ、そんなところでしょうか。