神罰てきめん

今日は既出の小ネタのミックス技。個々の小ネタのみならず、ネタの組み合わせ自体もジジェクThe Abyss of Freedomにあったりするのですが、まあまあここはそれはそれでということで。

さて、身体と心を繋ぐのは表象であり、その表象は人間にはなく、すべて神の元にある、マルブランシュは言います。つまり、我々の身体の運動はすべからくいったん神を経由し、そこにお伺いを立てなくてはいけない、とマルブランシュせんせい。

マルブランシュせんせい風をパクると、ですから、意識が「は〜い右手上げて〜」というと、そのお願いが神様の表象の元に届き、しかる後神様が、「おっけ〜」と返事をくれ、実際にそこから送られてきた表象のシグナル通りに右手があがる、そんな感じでしょうか。

だから、俺の意識が右手上がれって体に命令するから右手が上がるんだよ!なあんて短絡路を考える人もでてくるのです。で、そんな傲慢さの罰がファルスである、と言ったのがアウグスティヌスせんせい。

アウグスティヌスせんせいは言います。人間、自分の意志で何もかもが恣に動かせる、と考えた、と。で、神様は男の股間に、見事に意のままにならない可哀想な器官をこぶとりじいさん(欲張りの方)よろしくくっつけた、ということなのだそうです。立て、立つんだ!と呼べど叫べど立たなかったり、意味もなく立って扱いに困ったり。

で、ここで、ふっと思ったのです。

シェリングの神様は、自然、それもちょっとばかりマッドな自然から、言葉をしゃべり出す、というか、浮かび上がらせます。それは、このいささか混沌とした自然に理性の法を陳べるため。でも、それは神様本人がしゃべってはダメなのです。それは、自然的であり、且つ悟性的である存在にゆだねないといけません。でないと、悟性と自然、みたいな二項対立が終わらないことになります。

で、そのにんげんさま、その訳の分からない自然と、訳の分からない神の言葉と、両方を押しつけられて途方に暮れます。その途方に暮れていることを、どうも自由とシェリングは呼んでいます。

ここで大事なのは、じゃあ理性が自然を制御しきれば善で、自然に理性が負けちゃえば悪なのか、といえば、そういうことにはならない、という点なのです。むしろ、悪とはその自由を自分の恣意、支配と勘違いすること。むしろ、神から預けられたこの二つの言葉と自然のあいだの絆が人間のなかでは分離できるもの、そしてそれを我欲に任せて扱えると信じるところにあるのです。

そんなわけで、ファルスはまさに、この自由の器官。われわれの身体は、残念ながらもうこの我欲の完全な支配下におかれてしまいます。でも、この股間の可愛い息子たちにだけは、身体と心の結びつきが、神に預けられた、神に託された自由、であることを、ときどき思い出させてくれるのです。ん?ファルスは自由の器官なのでしょうか。。。

まあ、そうはいっても人間は我欲の塊、支配欲の塊。そんなわけで人間、というか男は、より確実性の高いファルスのコントロールを夢想します。マスターベーションですね。ですから、ラカンはファルス的享楽を根本的には自慰的な享楽、「愚か者の享楽」といったのでした。

ですから、この身体と表象の重なり合いの不可能さ、あるいは自由。それをファルスと、精神分析は呼ぶことになったのでした。

しかしながら、このファルスという、いささか空虚なちょうつがい、それとは別に、たぶんに偶発的な、ある証言者が必要になります。それは、このファルスというちょうつがいが機能して、自然と精神を結びあわせようとする、それはいいとして、まあこれはそういう連結機能、ということに限定しておきましょう。でも、じゃあ具体的に、どこでどこでどの表象がどの自然に出会って存在者を生み出すのか、それがものすごく偶然で適当だ、というのです。ラカン的には、対象a。同時に、どうもフェティッシュ的な理論でもありますね。