寄生されることの享楽


「全体あるいは完全な存在の形成を妨げる障害となっているのは母親ではないと反論するだけでなく、この妨げこそが女を主体として構築するものなのだと反論するだろう。女になるとは、すべて-ではないnot-allものになること、自分と自分の身体との分離を引き起こす対象に寄生されることである。そしてこれは、女をその身体とは異なるものとして規定することによって起こるのではなく、女の享楽を自己同一性の破壊とすることによって起こるのである。」(142)

唐突ですが、前々回に引きつづき、「女なんていないと想像してごらん」から。さて、この文章をどう理解しましょう。まず、ここに見られるのは象徴的去勢の問題です。つまり、去勢はそれじたいがぴったりと重なり合うことがない。ラカンの言い方を借りれば、去勢とは代理人としてセックスできるようになる、ということです。つまり、自分の身体を、自分が代理する父親モデルに服させることですね。パパが作ったロボットに乗る、というアニメの定番設定はまさにこの構造そのものです。ファルスとは、その重ね合わせを可能にすると同時に、その一瞬の自由さ、あるいは無根拠さを表すものでもありました。その辺をご理解頂くために、前回の小ネタ集はあったわけです。

とはいえ、この重なり合いがぴったりとはいかない、それもここまで見てきました。おつりが来るのです。あるいはおつりが足りないのです。つまり、そもそも重なり合いを起こさねばならないような事件、この重なり合う二つを生み出す、分離させるトラウマティックな出来事が必要なのです。そして、その重なりあわせにそれ自体は回収され得ない不可能なものとしてのトラウマティックな出来事は、今度は偶発的なものとして主体の前に回帰してきます。

この、最初の方の「トラウマ的な出来事」。それは、閉じた一者としての世界を開き、すべてではない、そんなものに変えます。これもまた女性。コプチェクの記述からは明確になりませんが、しかし、この世界の亀裂たる出来事として存在する女性と、その余波として生まれた対象になることは、同じことではありません。一方に、神話的な、この世界の亀裂となること。他方に、この世界の亀裂は、その残響、副産物、そこを通じて確かめるしかない、そんな対象、対象aに寄生されること。この二つの、シェリング的には非常に曖昧な因果関係あるいは時間関係に位置づけられた、項があるのです。

とはいえ、その辺の理屈っぽい茶々を入れても、じゃ何?というだけのこと。まずは、コプチェクの言うことを聞いてみましょう。

コプチェクによれば、女性は外的な限界を持たず、男性は女性とは逆に外的な限界によって規定されるものとされています。そして、男の子女の子、それぞれの母親との関係のちがいは、男の子はそこから分離していく、女の子は分離が難しい、ということではないと。そうではなく、男の子の場合の方がそうした分離が簡単に形象化されるだけなのだ、とコプチェクは言います。

その形象化は、限界を超えたところにある、天国のような彼方にある理想化された母親をおくことでなされます。ですから、女の子とのちがいは、切断がないということではなく、この切断に理想化が伴っていない、という点にあるのです。

このようなかたちで、メタ次元を拒むこと、より正確に言えばメタ次元の形象化を拒むこと、でしょうか、そのことで、歴史的現象は内部から分裂します。不気味な反復はそうしたつまずきの場所に現れます。この分裂の具現である不気味なものは放棄されていない母親ではなく、母親から分離した部分対象である、それがコプチェクの論旨です。


ですから、私がコプチェクに茶々を入れてみたのは、この直前の段落、分裂と部分対象の回帰の論理の精密さに疑義があるからというだけの理由です。全体としては、この論理、特に思春期の女子の拒食症の問題の分析などで、非常に示唆的であると私は思います。


「女は、彼女が母親を完全に、徹底的に放棄した結果形成されるそうした過剰な、空虚な対象−たとえば乳房−に取り憑かれている。」(140)

この書き方を見る限り、コプチェクも私が指摘した点をもちろんふまえていたこととは思うのです。この亀裂を十全に受け入れたが故に、女性はそのおつり、残響としての剰余享楽を付されることになります。とはいえ、このような徹底した女性性、本当にあるの?という疑念はぬぐえませんが。しかしここでは、とりあえずそれを仮に受け入れておきましょう。



「女は、自分自身を生きる−自分の身体を楽しむ−際、あたかもその身体が自分のものではなく他人のものであるかのように、あたかも自分が他人の分身であるかのように、そうするのである。」(141)

しかし、それは、よく言われるような母親の身体との二重化を意味するものではない、とコプチェクは言います。彼女は彼女に取り憑いた空虚な対象、それを享受するのだと。これは、ラカン派のフェミニスト、ミシェル・モントレルーの言葉を借りれば、女の自己愛において、女は最初の対象であったものと自分とを区別できないのだ、と述べられていることなのだ、そうコプチェクは援用します。

もう一度まとめましょう。べたなラカン派的言いまわしを借りれば、トラウマ的な出来事としての、母の欲望。それに直面することに関しては、男女に差はありません。しかし、その歴史をどう回収し、いわば「主体化」するのか、そのやり方には差異があります。女性においては、その出来事は形象化によって回収されることなく、つねに根底的に開かれたままに留まっています。閉じることのない膿んだ傷口。それをそのまま内側に織り込むかたちで主体形成されるが故に、女性の主体性にとっては、この折り返しの重なりあわなさ、主体性と客体性のずれそのものが、自分自身の上で、残存します。ですから、母との分離点、つまり自分から切り離された母の部分的な身体が、そのまま自分自身の身体の上に貼り付くのです。

では男の場合は?コプチェクは形象化がうまくいくから、と、えらく手短に済ませています。この点については、また別に考察してみる必要があるでしょう。さしあたり今は、女性は外的な限界を持たず、超越論的な彼方の否定によって構成され、他方男性は女性とは逆に外的な限界によって規定される、というコプチェクの指摘を受け入れてみましょう。そうすると、男性はこの世界の亀裂たる母の欲望を、彼岸にあるものに形象化する、ということが分かります。ここではコプチェクに逆らって、それは理想化された母ではなく、ファルスである、といわねばなりません。つまり、ファルスのシニフィアンが、後年のラカンとそれ以前のラカンでニュアンスを大きく変えていったことが反映しているように、ファルスそのものも二重の意義を担わされているのです。