斜めから見る

rothko2004-08-11


「動くこともなくそこにとどまっていようとしてエミリーは、歪んで見える現実、この現実に捉えられた形態が、そこからして彼女の内部より押し出され、統制されていく視点の位置に立っている。・・・その結果、彼女がそこから出て行こうと思っても、彼女の知らない一人の王の気に入るようにでない限り、一歩たりと歩を進めることができない。」

バルトルシャイティス「アナモルフォーズ」に引用された一文です。ハノイ生まれの作家、サッコの作品の一節、と本文には記載されていますが、書誌データが注にないのでちょっと詳細は分かりません。"Plaidoyer au roi de prusse - ou la premiere anamorphose" SACCO CHRISTAINE, というのが近そうな気もするのですが・・・こればかりは原本を見ていない以上ちょっと分かりませんね。

さて、この一節を引用したのは、これまた引きつづきコプチェクの「女なんていないと想像してごらん」の検討の必要上。

第七章「視覚の筋かい−見ることの支えとしての身体」と題された章で、コプチェクは視覚と身体性という問題を取り上げています。身体性の復権、というときに、一方で叩かれるのはデカルト的な観察者の視点。それは世界から切り離され、抽象的な意識を重視する、とされているからです。デカルトがしばしば援用しつつ解説するカメラ・オブスキュラの仕組みがそうであるように、遠近法によって導入された視覚世界の客観性。この客観性によって、「観察者は身体と世界を超越でき、それによって世界を正しく理解できる信念」(258)を抱くのです。

もちろん、それはそれで古典的な理論なのでべつにいいじゃん、といえばそれまで。ですが、コプチェクが気に入らないのは、映画理論がラカンセミネール11巻での視覚の理論を、まさしくその図式を解説したものとして理解し、そしてみずからの映画理論の骨子の一つとして使っているということです。ルネサンスの遠近法は、カメラ・オブスキュラの古典幾何学ではなく、射影幾何学に基づいている、というのがコプチェクの反論。そのことを踏まえていないと、ラカンがホルバインの「大使たち」のアナモルフォーズを題材に講義を展開したことの意味が分からなくなってしまいます。ちなみに、バルトルシャイティスの同書の翻訳者である高山宏の解説でも、アナモルフォーズ復権は、人間の目を世界の中心に据えて、そこから線的に世界を整序しようとする擬人的な一元的な世界観、としての線−遠近法に対置されるものとして、アナモルフォーズの意義が措かれています。

ここから先、ちょっと我ながらあやふやなので詳しい方がいたらご教授願いたいところなのですが、線−遠近法においては、中心は絵画のなかにあります。つまり、キャンパスのある一点を中心として、そこからおなじみの斜線をひいて・・・。対照的に、アナモルフォーズは、一番単純なかたちでは、二重投射でできあがります。凄く簡単にいうと、一枚の絵を切り抜いて、その影が板の上にでも映るようにすればいい。そうすると、そこには歪んだ図像が映し出されます。どの角度から見ても訳の分からないこの図像、光の入ってきた当の点から見る限り、もとの図形の姿として見えることになります。

これがさらにあーだこーだうーだと充実していくと、ホルバインの「大使たち」のような洗練された絵画が生まれます。二人の男の間、やや左側の男のほうの足下にびよーんと長く引き延ばされた斜めのシミのようなもの。これ、ある角度から見れば、骸骨なのです。

ラカンは、自分の対象aという概念が、遠近法でいう消失点なのか?と聞かれ、明確に違うと答えています。アナモルフォーズを支える技術は、簡単にいってしまえば私の眼差し、それが光源で、そしてその光源から発した光が対象にあたり、キャンパスの上に歪んだ影を落とす、そういうことです。ラカンは、この歪んだ影、ホルバインの髑髏のことを、-φ、虚のファルスという風にいいました。たまに虚数チンポ(失礼)などという言い方をする若い人たちがいるようですね、ネット上の書き込みなどを見ると。。。

これをどういう風に捉えましょう。まず、この影は、見る人間が観察者の視点にある、そして絵画もまた絵画全体を支える中心を持つ、という、絵画と人間の安全な距離を破壊します。この歪んだ影は、あなたがこの影が要求するある一点に入ってこないことには、元の図形、髑髏としては見えないのです。同時に、それは、あなたの眼差す位置にある光によって生み出され、歪んだかたちで映し出されたものでもあります。コプチェクはそれを、「知覚されたもののなかに、知覚するものを捉えようと」(276)しているのだといいます。

これはとても不気味な瞬間、つまりは不安の瞬間として捉えられます。-φのマイナス記号に釣られて、それを不在のものとばかり理解してはいけません。これは、遠近法という客観的な、あなたが安全な距離をとった観察者として見ているはずの絵画のなかに、見ているあなたの眼差しが映り込み、しかもその眼差しがあなたを見返してきた、という、ドッペルゲンガーにいきなり睨まれたような不気味な体験だからです。これは確かに他者のなかの欠如であり、去勢不安を呼び起こすような、不安な欠如でもあります。しかし、同時にそれは、英語の求めるという言葉、wantの二重性、要求=欠如がそのまま反映しているような欠如でもあります。つまり、《他者》の要求でもあるのです。そして、《他者》の享楽でも。

このあたりから、ちょっと話はややこしくなりました。でもさしあたり、捉えておくべきは、ラカンの絵画論では、見る主体、主観と、見られる客体、客観的なものとの区別が、どこかで揺らいでしまう、その瞬間を押さえようとしているのだ、ということでしょう。そしてそれは、見る主体が奇妙なかたちですでに客体化されて登場しており、その位置から見られる主体を待ちかまえている、という不気味さです。つまり、純粋な主観として、ふわふわと抽象的に空を飛びつつ優雅に絵画鑑賞していたあなたは、突然、奴隷のようにモノとして扱われている自分がその客体の世界のなかから自分の方を恨みがましくじっと見ているのに気がつく瞬間に襲われる、そういうところでしょうか。この、モノ化された主観性の断片、それをファルス、ここでは-φといった、ということです。