無からの創造

毎回結構長かったシェリングも、一応今回で本人の著作は一区切り。今回は、 「哲学的経験論」(山本清幸訳、ミネルヴァ書房、1973)です。


シェリングのここでの論理構成は、一見すると以前の複雑さを失い、かなり単純化されたものとして登場します。純粋に客観的なもの、つまりBであったものそのものが、いまや全く主観的なものとして、つまりAとして措定されていく。もちろん、Aは単純なAなのではなく、Bから出てそれを克服してきたAなのであって、AはいまやAではあるものの、しかも引きつづきそして不断にBを自己のうちに有し、それを前提としているもの、とはされています。盲目的に客観的なもの、Bと主観的なもの、認識するものとしてのAという構図は、だいぶわかりやすくはありますが、微妙に以前の葛藤を消去してしまっていると思わざるをえないところも多々。ここで注目しておくべき箇所があるとすれば、「それ(=B)はつねにただ生成しつつあるものなのであって、決して存在しているものではない。」(29)という指摘でしょう。このロジックが既出でないとは言いませんが、ここでは「決して存在しているものではない」という言葉に着目しておきましょう。

この生成の原理は三つないし四つに分かたれます。

  • 第一原理:Bのなかの偶然的存在者。Bとして存在すべからざるもの。Bがヒュポケーメノン、根底におかれたもの、実体である以上、これはそれ自身のための存在者ではないことになる。(39)
  • 第二原理:Aはそれ自身が存在するためではなく、Bを否定するための手段あるいは媒介である(当時に原因でもある)。というからには、それが目指すべき終局が無くてはならない。それが第三原理になる。(40-41)
  • 第三原理は「実体であると共にまた原因であるもの」(43)である必要がある。自己の外に措定されない、自己のうちにある、自己を保有している実体。それを精神という。(44)

一見するとこれは、非常にまとまりのよいドイツ観念論的モデルであるようにも思えます。みずからの外に出て、そしてみずからに回帰し、主体としてだけではなくまた実体として、みずからを生成するもの。しかし、ここではその中におかれたいくつかの齟齬を指摘しておかねばなりますまい。

まず、BからAが析出してくる段階。これはBとして存在すべからざるもの、とされるようになります。この偶然的存在者、という言葉に、以前の原始偶然、更にそれ以前の憧憬という言葉を重ねることは難しくありません。問題なのは、それは存在すべからざるもの、つまりは不可能であるはずだった、あってはならないことだった、という点です。そして、そこから生まれたAは自分自身に存在する理由を持ちません。

こうして、シェリングはついにこう述べるにいたります。


「神はまさに自体的には現実的に何ものでもない、神は関係以外の、そして純粋な関係以外の何ものでもない、なぜなら神はただ主なのであるから、われわれがさらにこの上に、またはこの外に何かを附加するなら、それはすべて神を単なる実体にしてしまうと。・・・ひとり神の実は自己自身と何の関わるところなく、自己自身に煩うことがない、したがって神はただ他者に対してのみ関わりをもつ。神は全く自己の外にあり、したがって自己から自由であり、このためまたあらゆる他者を解放するものである、と言ってよい。」(66)


ここで、神は「われわれはただ普遍的に客観性に対する優越性を主観性に付与する原因を神と呼ぶに過ぎない。」(54)という存在に切りつめられることになります。神は自分自身になんら関わるところのない、つねにみずからの外にあるもので、他者に対してのみ関わりを持ちます。その関わりを持つということは、他者を解放するということとされています。でもそれは、その他者に、「主観性の優位」を与えるという意味なのでしょうか。その「主観性の優位」とはなんでしょう。

われわれは、この純粋な関係、および主観性の優位ということに関しては、以前の内容と変わらぬ答えがここにあるのではないかと考えています。純粋な関係、みずからがみずからの外に出ること、それは、以前の愛の言葉の定義、「各自が各自だけでも存在し得たであろうがしかもそうは存在しないで、他者なしには存在し得ない、というようなそういうものを結合すること」と変わらぬものではないでしょうか。そして、主観性の優位とは、その愛の言葉によって人が直面する自由のことではないでしょうか。そして、シェリングはここでも変わらず、神のこうした三つの様相を結ぶ紐帯として人間があるのだと述べています。いわばその愛の産物として人間がある、ということでしょうか。

では、この書物の、以前にはないオリジナリティはどこか、ということになると、私は無からの創造に対するシェリングの考察にあると思っています。

シェリングは、このB、盲目的存在としての神的存在の形式をこう考えています。神は決して本質的にBであることは出来ない。ただ現勢的にのみnur actu、しかもそれと意志してのみ可能であるが故に、ますますAでもあるのだ、と。

では、このときのBのステイタスはどうなるのでしょう。シェリングはここで、非存在者という言葉の曖昧さを持ち出します。現実に存在ではないものの、存在する可能性のあるもの、単なる非存在者Neantなのか、それとも存在が否定される、ということが確かに肯定されているrienであるのか。そして、無からの創造とはそのどちらの無からの創造なのだろうかと。シェリングは最終的にはこう結論します。


「完全に自由な創造には全く何ものも前提とされてはならない、単なる非存在者の何ものも、したがって何の勢位も、また同じく創造者の内と外とに認められるであろうような勢位は、何一つ前提されてはならない、ということに導く。」(110)


つまり、可能性というポテンシャルを残してしまうBは否定されねばなりません。何一つ前提とされない、これは、不可能ということなのでしょうか?

ここで、シェリングはまたしてもアポリアに出くわすことになります。このBは単なる非存在者、というものだけであってはなりません。むしろそれは、同時に


「存在すべからざるもの」という意味を合わせた非存在者である、と言うことができるであろう。すなわち、まことにこの盲目的にして無限定的な存在は、創造によって漸次駆逐されるべきものだからである。」(111)


シェリングは言うのです。ですから、シェリングギリシャにおける二つの無に、もう一つの無を付け加えることになります。

  • (一)非存在者、ウーク・オン、本来的な無の概念
  • (二)メー・オン、単なる非存在者の概念
  • (三)存在すべからざる、否定すべき存在者の概念。ドイツ語のdas Unseyende。

そして、Bのステイタスはこの三番目に当てられることになります。

こうしてわれわれは、存在すべからざるもの、を二つ手にします。AはBの中にあって存在すべからざるもの、Bもまた創造によって存在すべからざるものとして駆逐されます。しかし、それをもたらしたのは一切の前提を、勢位、ポテンシャルをも前提としてはいけない、不可能なるもの、rienなのです。しかしながら、それはこの偶然の出会いによってAとしてそしてまたBとして機能しはじめると、今度はその創造の、生成の運動を強いる必然として機能しはじめるのです。

ですから、われわれは、いまだ非常に漠然とした形ではありますが、生成の運動以前には不可能であった何かが、ある偶然、原始偶然(ひょっとするとそれは神の純粋意志であるかもしれませんが)をつかんだ瞬間から今度は必然として機能しはじめる、という、不可能と必然の反転を目にすることになります。この不可能は、それ自体なんらポテンシャルなものであってはいけないのですから、必然の運動が溯及的に生み出した、としか言えない可能性もあります。しかし、この点はいまは措きましょう。この必然への反転が、「存在すべからざる」という否定の意志となって、AとBとをそれぞれ創造の過程の中に巻き込んでいきます。Bにあっては、Aが存在すべからざるものとして、自己の根底から遊離したものとして浮上します。しかしそれは純粋な関係性となってBを捉え、再びBに回帰していく過程で、Bを駆逐していきます。しかし、Bもただ駆逐されるのではありません。その動きの中で初めて、BはAの根底として機能するのです。


やれやれ、というほどにややこしいこの運動、シェリングはそれを、自由と悪という、とてもわかりやすい課題を、そしてわかりやすい答えをえられたためしのないこの課題を、ストレートに解くために必要としました。それは同時に時間論も、そしてわれわれの観点から行けば無意識、原抑圧といったテーマも派生させながら、スパイラルを描くように堂々巡りを続けながら深化していきます。彼の40年以上の長い沈黙、それは由なきことではなかったのでしょう。