知を想定された主体(3)

 対象aという概念は、ラカン本人の否定(いつものことですが)はさておくとして、やはり鏡像としてのaという概念から派生したものであることは間違いありません。

 鏡像のなかに映らないもの。このアイデアを、ラカンはカール・アブラハムの症例から得たのでした。夢のなかでちょうどファルスだけ映っていない裸像、が出てきたのだそうです。自主検閲ではありません。たぶんモザイク入りでもないでしょう。
 さて、この鏡像のなかの不可視の部分、それは一方では不在としての共通の徴、trait unaireという概念に結晶していきます。鏡像は鏡像でも、それが自分と同一と受け取られるのはなぜか。その不在の部分こそが、共通の徴として認知されるがゆえにです。たとえば、ラカンセミネール第六巻のハムレット論(日本では慶応に蔵書のある"Ornicar?"に掲載されましたね)で、オフェーリアを失った兄レアティーズの悲しみに、あるいはオフェーリアの不在を抱える空虚な心に、同一化したという旨のことを(多少私の拡大解釈ですが)書いています。この時点では、後に幻想の公式と呼ばれるものとまったく同じ公式$◇aがすでに提示されていますが、このaは対象aではなく、鏡像としてのaとされています。ですが、このハムレット論には既に対象aに移行するある種の過渡期的な変質が伺われます。

 ですが、対象aはそののちには、この不在そのものが宿るとある具体的な対象、現実的なものの小さなかけら、とされていくようになります。後のラカンふうの物言いを借りれば、この空無(モザイク入りってわけではない)ファルスの位置-φから、対象aが分離する、というところでしょうか。
 シェリング論の末尾に少し書いたように、(8月5日)ファルスという最初の不調和は、とある偶然的な対象に宿ります。その対象は、不調和故に引き起こされる、己が己に重なり合えない、同一のものになり得ないことの原因であると同時に、その対象を外部に持つことで、ある種自己自身を不調和的に媒介させもしている、原因であると同時に対象でもあるようなものです。ジジェクふうの物言いをすれば、「それがある/あるいはそれがない」がゆえに己が不完全だと感じてしまう、そんな対象は同時にその不完全さ、亀裂の距離を生みだしているが故におのれ自身を、あるいはおのれ自身の起源の証拠でもあるということです。アレがなければ俺はこうだったろうに〜、きー、と叫ぶ今の私は、それがなかったからこそ今ここにいるのであって、それがもしあった、と考えたら今の私がまるまる消えてしまいます。このあたりはドラえもんにきつく説教されたことがみなさん一度や二度はあるでしょう。

 さて、このしだいしだいの対象aへの移行、そのなかのとある段階で、それは、じつはここまで見てきた転移についての話のなかで、大きく展開させられてきた、そういう歴史的経緯があります。

 たとえば、セミネール第八巻の時点では、この残余はこのように説明されています。


「この残余とは幻影です。この幻影はイマージュにおいてそのイマージュに欠けている部分とまさに同一視されています。そしてこの欠けた部分の目に見えない存在が美にその輝きを与えているのです。」(450)

 ですから、これは鏡像の中の不可視の部分、という、より古典的な鏡像段階論の拡張として位置づけることができます。鏡像の中の不可視の部分、それに対応するなにかがひとつの残余に宿る、そしてその残余は、この不在の部分、空虚の放つ輝きによって、美として浮上してくる、と。

 さて、じつはこのあたりは、実は比較的早い段階では、倒錯の理論に基づいて発見されていたことの拡張なのではないかと、私は考えています。たとえばこのような一節があります。セミネール第四巻の119-120ページですから、1957年1月16日の時点です。ちょっと長いですがまるまる援用しましょう。


「そこには状況の主体的構造を全て次第にふるい落とした象徴的縮小のようなものがあり、残っているのは完全に脱主体化された残余だけです。ですからこの残滓は結局謎めいたものになります。というのは、この残余は主体の関わっている分節化された大文字の他者、《他者》、《他者》の水準に属する構造を全て備えている−−−もっとも、それは現れてはおらず、無意識のままであり、主体によって引き受けられてもいませんが−−−からです。・・・これは倒錯という水準に見られるものとは別のものでしょうか。例えばフェティシュを思い浮かべてみて下さい。フェティシュはあの見たこともない物によって説明可能だと言われています。見たこともないと言うのは、それもその筈です。それは、ファリック・マザー(ファルスを持った母)のペニスのことですから。ちょっと分析してみるだけ、主体はまだ思い出せる記憶の中で、それを或るはっきりとした状況に結び付けていることが解ります。子供(の頃の主体)は母のドレスの裾に注意を引きつけられたのです。少なくともそれが彼の記憶です。ここにはいわゆる隠蔽記憶の構造、つまり記憶の連鎖が止まる瞬間の構造との注目すべき一致が認められます。・・・幻想においても我々は倒錯と同じ秩序に属するものに出会います。それは瞬間的な状態に縮小され、記憶の流れを固定し、隠蔽記憶と呼ばれる点に止めてしまいます。映画で迅速に流れていた動きが突然或る点で止められ、登場人物が凝固するという事態を思い浮かべてみて下さい。この瞬間の特徴は、主体から主体へ伝えられていた意味のある充実したシーンが幻想という形で動かないものへと還元されることです。」


 さて、ここで注目して欲しいのは、倒錯者の構造。母親のペニスの不在、それはわれわれで言う0地点です。なぜなら、それは外界の中に突然意味不明な物が、ラプランシュふうの言葉を使えば「謎のシニフィアン」が出現する瞬間なのですから。しかし、倒錯者はそれを否認します。そして、その不在を、その近所にあった別の対象の存在に置きかえてしまうのです。
 もちろん、これは倒錯の話ではないか、という論難は正当なものです。しかし、その直後にそれが隠蔽記憶や、幻想という概念の枠組みでも適用可能なものとして扱われていることの方が重要です。わたしは、これは倒錯によってもっとも表面化された、あるひとつの共通の構造であると考えています。
 その十全な論拠とは言いませんが、以下の一節を参照してください。


「私が倒錯と呼んだもの、あるいは定義したもの、それは《他者》の領域の中で、ある意味で原初的な意味で対象aを再建し、再構築するということです。対象aが、何かが原始的、原初のものへと捕捉されたということの効果であるということ、ということに還元できるという点において。どうしてそれを認められないことがありましょうか。そこから主体を創り出したりはしないという条件さえ付ければ、この動物存在、我々は先ほどそれを皮袋としましたが、これが言語の中にとらえられるに応じて、この存在の中にある何かが対象aとして決定され、この対象aは《他者》へと返される、そういってもいいでしょう。」(1969.4.30)


 つまり、倒錯者においても神経症においても、対象aを創り出す操作じたいは変わっていない、そしてその対象aをどこに位置づけるのかの、その関係性の差があるだけなのです。
 ここまでの議論から、倒錯における想像的なものの特異な性格が、やや拡張されて現像の構造のなかに一般化されていき、それが一部想像的なものの拡張という形で対象aの理論に流れこんでいく、という経緯だと私は考えています。そして、それが転移の論理のなかで、確認されていった、とも。下記の引用箇所は、ここで説明したような鏡像的なものから対象aへと移り変わっていくラカンの理論をトレースしていくのにもっとも都合のいい箇所ではないかと思います。長いですが。


「舞台の上ではなく、こちらの世界にとどまっている限り、そして《他者》の中に何が起こったのか読みとろうとする限り、我々はそこに欠如のXを見出すのです。対象と欠如とのこうした結びつき、座標が主体が《他者》の場の中に自らの身を立てようとするときには不可欠なものです。つまり、できるだけ遠く、抑圧されたものの回帰の中に現れるものよりさらに向こう、破壊しがたく、匿名の原抑圧を構成しているところまで。というのも、それが絶対的に不可知なものだとはいえないからです。・・・転移の中では多かれ少なかれ無視されているこの次元がうち立てられるのは、この空虚の場所が目指される限りにおいてです。イマージュによって物質化される何かがこの空虚の場所を取り巻くようにして表してくれることもありますが、それは何らかの円環面、開け、裂け目という形を取ります。ここに、鏡像が作られるのですが、その境界線をも同時に表してくれます。こここそが、不安の場なのです。こうした、縁という現象、それは窓のように開いたものの中に、特権的な瞬間に現れるものですが、これが世界の幻影的な境界線となります。再認、あるいは舞台を制限するわけです。この縁、枠組み、裂け目に結びつく、ということ、これはシェーマの中では二回は現れています。鏡の縁と、◇という記号、それが不安の場です。皆さんはそこで探し求められているものからの信号として受け止めなければならないのです。」(1963.1.16)

次回はこの最後の引用箇所を手短に解説しながら、まとめに入りましょう。