知を想定された主体(4)

 前回までの話で、われわれは、対象aという概念がある空虚との出会い、あるいは鏡像のなかの不可視の点から生まれてきたのではないかと説明してきました。
 それは、たとえば分析においては分析家の沈黙、ということでもあります。ネットワーク論的な用語でいえば、ネットワークの断絶です。しかし、それはある偶然的な、物質的なかたちで具現化されねばなりません。たとえば、分析家の沈黙。それはひとつの謎めいたメッセージ、要求となります。「かれはこう言った、しかしそのことでいったい何を考えている?本当の目的は?」この「本当の目的は?」それが《他者》の欲望として、主体に感じられるものです。そして同時に、この「こう言った・・・」の部分、その具体的な部分から、具体的な対象が生まれてくることになります。そのなかに、「本当の目的」のかけらが見つかることを信じて。

 ですが、それをその空虚の表象といってしまうことには難があります。空虚の表象は、あくまでイメージ、つまり想像的なもの、あるいは鏡像的なものです。では、この具体的な対象はなにをもたらすのでしょうか。それは、この鏡の縁となるものであり、その縁が形作る空虚こそが、鏡のおかれる場でもある、とラカンはいいます。むかしジジェクはミレールの説明を援用してこんなふうにいっていました。絵の真ん中から小さい四角を切り取る。で、その四角が同時にその絵のフレーム、外枠でもあるような絵を考える、と。ですから、絵のキャンバスを四角いゴム板のようなものと想像して、で、その真ん中に四角い穴をあけ、その穴の縁をぐいっと手前に引っ張り上げ、でもってその勢いで元々の板の外枠にくっつけ・・・かえってややこしいですかね?でも、同じように患者が見る世界も、この縁であり外周である部分によって生まれた奇妙なキャンバスのなかに描かれるものになります。

 こうした観点、流れを合わせて、分析家の位置を考えてみましょう。そうすると、ですから、同じように、分析家も、その魅力は実はその空無、空虚から放たれる光によって生まれたものであって、実際は、その光をたまたま反射してしまったにすぎない、その偶然のためにそれ自体が光源に間違われてしまった、偶然的な対象である、ということになります。逆にいえば、分析家はその沈黙によって、要求、すなわち意味値0のシニフィアンを再度患者の側に擬似的にもたらすことによって、この対象aがどのように析出されるのかを見ることになるものです。


「分析家はこの残余を知っています。これは要求の彼岸に、転移の彼岸にあるものです。これを通じて主体のSの根底的に分割された性格が具現化されるのです。これが対象aと呼ばれるものです。・・・この残余、それはゼロの現れる論理的なレベルにおいて現れるものです。主体的な経験はこの我々が対象aと呼んでいる残余を出現させます。」(1965.3.3)

 このクズの還元不能性。フロイトはかつて無意識の不滅の欲望と述べたことがありますが、その不滅さはこの還元不可能性によって生まれるものです。そしてまた、われわれは以前のシェリングの分析においても、この還元不可能性が「原始偶然」という言葉で表現されるのを見てきました。その意味で、対象aとは、断絶、空無という、ある種人間存在の共通構造とも言える設定の中に、その切断そのものを、同時その切断以前の接続状態を立証してくれるような幻想を抱かせる、ある歴史的事件を、偶発性を、そして、その偶発性の故の個体性、というものをもたらすということもいえそうです。
 では、分析という現場において、分析家が対象aだと呼ばれているのはどういうことなのでしょう。というのも、ラカンはこう言っているのです。


アリストテレスは、人間は魂でもってavec考えるといいましたが、被分析者はこのくずでもって解釈するのです。このくずは彼に分析家の姿をした対象aを提示します。これによって、何かひびの入ったものが生まれるのです。」(1972.6.21)


 このクズは、対象aと呼ばれています。しかし、対象aの機能とはここでは、対象という言葉に期待されるような意味を何一つになっていないことに、われわれは気づかされます。


対象aの役割は、欠如であり、距離であって、媒介では全くないのです・・・つまり、ディアローグは存在しない、主体と《他者》との関係には本質的に非対称な次元であり、ディアローグとは詐欺である、ということです。」(1968.6.19)


 この意味で対象aとは不思議な存在です。われわれは、対象aを手にします。対象aのいくつかは、所詮はものですから、物理的に手にします。ですが、それは、「もう持っていない」ということを「持っている」という、かなりパラドキシカルな意味での所有です。これがシニフィアンのパラドクスです。シニフィアンを持っているということのおかげで、「持っていないを持っている」ことが可能になるのです。
 分析家とは、ここで、主体をその沈黙によってネットワークへ開放させると同時に、その本質的な非対称性、あるいは還元不能な距離としての性格の故に、その開放を過去のこととして押し流してしまう、そんな位置を占めることになります。つながっていた、という半過去のかたちで。そのことは、人と人との関係のささやかな不思議、自分のうちに相手の一部が遺ってしまったような、相手のうちに自分の一部を遺してしまったような、あの感覚に近いものです。対象とは、当然のことながら、譲り渡せるものですから。その一部とは、もはやない、ということを今ここで手にしている、ということなのです。

・・・まあ、手切れ金という話もありますが。ですから、所有権は放棄して、おとなしく支払いましょう、この残余。ですから、分析家には金を払わなければいけないのです。その残余、こと、通称分析家は、あなたが金を払うという行為を行ったが故にはじめてそこに存在した生き物です。「分析主体がいなかったなら、精神分析家もいまいに。」(1968.2.7)分析家の隠し持っているように見える秘密、つまり患者にとって分析家が隠しているように思われる、自分についての真実とは、ヘーゲルふうに言えば分析家にとっても秘密、というか不明なものであり、その秘密は端的に言えばあなたがなぜ私に金を払うのか、という秘密なのです。主体と《他者》の非対称性というのは、ある意味ではミスリーディングであって、その非対称性の故に主体と《他者》とがそれぞれはじめて生まれたのです。
 あなたがなぜ金を払うのか。それは、あなたがあの空無の代わりになにかを見たからであり、そのなにかが今度はあなたのお金になって再登場しているのです。ですから、あなたはお金を払うことで、つまりこの「もう持っていない」をのしをつけて返すことで、「持っている」に交換しては貰えまいかと申し出ているのです。そして、このカフカ的な門番、ネットワークを断線させたネズミにお金を払う必要はないのだ、空無をお金に換えようとするのはもう止めようと気づいたときに、分析は終わるのかもしれません。


「実際、もし知というものが常に一つの残余を残す、そしてその残余がある意味でそのあり方を構成する、としたなら、パートナー、つまりここにいるもの、援助者とはいいません、精神分析主体の仕事が機能するための道具といいましょう、そこに関する最初の問いが提出されます。その仕事の終わりに、主体はこの構成的な分割に気づかされます。その後、主体にとっては、何かが開かれてきます。それは行為への移行以外の何ものでもなく、それと異なるものでもありません。いってみれば、啓蒙された行為への移行です。そのことの知によって、全ての行為において、主体から逃れ去ってしまう何かがあるのです。そしてその影響をそこにもたらします。この行為の終わりに、自分自身の実現としての実現が達成されることになるのです。」(1968.3.13)


 もちろんこのパートナーはいわゆる精神分析家です。 で、ラカン先生のオチはこうだそうです。


「端的に分析家は詐欺師です。なぜなら、分析家は、知を想定された主体が分析の中でどのような運命を迎えるかを原則として知っているからです。」(1968.1.24)