知を想定された主体(2)


「今や皆さんも、その主体が何を知っていると想定されているのかは良くお解りでしょう。人が端的に意味作用を口に出すや否や誰もが逃れることのできなくなるもの、その様なものを知っているとされているのです。」(Sem11, 228)

というところで、前回は話を切り上げました。
 端的に言うと、われわれは前回では、転移というものをある基礎的な構造から考えました。つまるところ、人間は自分のことを知らないのです。で、その知らない部分というのは、自分の内側にあっても、外側にあっても別にいいのです。要するに異物なのですから。前者の場合はそれは転移の対象である、「知っていると想定された主体」にあります。後者の場合、それは無意識にあります。どちらも、全知の、あるいは神の位置に。

 でも、まあ外側にあるという場合はさておいて、内側にあるというときに、それが異物であるとはどういうことでしょう。知を構成するシニフィアンのネットワークの宇宙、パロールなきディスクールの世界には、知的所有権などはありません。後に主体と呼ばれることになるものが誕生することになる、その予定地には、そのネットワークの中のひとつの結び目、交差点があるにすぎません。この状況が劇的に変わるのは、このネットワークからの切断が起こるとき。このときが主体の誕生の瞬間でもあり、無意識の誕生の瞬間でもあります。簡単に言うと、主体はオンラインモードからオフライン、そしてオフライン状況に対応できるエミュレートモードにはいるのです。

 このときから、シニフィアンはみずからに折り重なるものとなります。どういうことでしょう?簡単に言うと、フロイトなら表象から表象代理へ、と説明するような話です。表象は自分たちに折り重なり、他のものをではなく、自分たちを表すために働くようになるのです。でも自分自身だけはけっして表さない、つまり、ぴったりとは折り重ならないという条件で。幻想のことですね。

 具体化しましょう。それまでは、世界は記号、シーニュの世界です。この記号はとても良くできていて、泣いたらおっぱいをもらえたり、泣き具合がちょっと違うとおしめを替えてもらえたり、みごとなものです。ですから、この時点では記号同士の美しい共鳴がそこにあるだけで、万事はなめらかに進行していきます。この状況を欲求といいましょう。ついでながら前々回の文脈と合わせておくと、この時期には当然のことながら、秘密とか、無知とか、そういうことはありえません、すべては透明な知の中に。神の光のもとに、と神学者ふうに言ってみたいくらいです。
 でも、このネットワークからの切断によって、困った事態が引き起こされます。ネットワークが絶たれてしまうわけですから、当然ですね。でも幸いなことに、そのネットワークから孤立した点、ラカンふうに言うと「泡」、は、その内側に過去の記号の蓄積をいっぱいに抱えています。ですから、このデータをもとに仮想的に現実もどきを再構成して(フロイトなら「幻覚」と呼ぶでしょうか)、この断絶に対応します。ですが、この切断のおかげで、内部の記号と外部の記号には根本的な不一致、ずれの可能性が混入してしまいます。というより、この不一致があるからこそそれを補うために内部という抱え込みと閉鎖が起きたわけですから、この説明はちょっとあとさきですね。

 ですから、主体はこのあとも、おなじような断絶と出会うたびに、自分をいろいろなかたちで再構成するわけです。分析家はまず、この断絶を、おそらくは自分の沈黙を利用して、人工的に再構成することで、再度登場させます。このことで、たぶん症状というかたちでちょっと妙なかたちで閉鎖した主体空間を、再度開くことを求めて。この人工的な断絶と、それにつづく自由連想のおかげで、主体はこの閉鎖状態をいったん解除して、ネットワークへの再接続を試みることになります。あるいはネットワークへの開放と言ってもいいでしょうか。

 さて、前回の最後で言ったように、ラカンはおそらくセミネール第八巻の時点では、ここを転移と考えています。ですが、セミネール第十一巻以降、ラカンはそれを対象aの位置に置くようになります。なぜでしょう。

 ここで、われわれはここまでの説明を若干修正しなければならないことに気づきます。われわれは、さしあたりネットワークの切断ということから事態を説明したのでした。この切断によって、主体が受け取るのは情報の無いということ、無、空白、要するに0です。
 ラカンがここで付け加えた変更というのは、こういうことです。この断絶、ずれはある残余として表現される。いってみれば、断線がそれとして認識されるのではなく、たまたまそこにいたネズミが、こいつが断線を引き起こした!と責められているような状況です。いきおい人はこう問います。なんでそんなことしたんだよ、このネズミ!はい、これが《他者》の欲望とよばれるものです。ラカンはいささかユーモラスにこう言います。


「人はランガージュの中に住まいます。ハイデガーにおいてもどこかでこのことを示唆している箇所があるとはいっておきましょう。ここに住宅難の解決策があります。しかし人は欠如の中に住まうのではありません。反対にどこかにすむことができるのです。実際どこかにすんでいますし、それでこそ『饗宴』のメタファーは意味を持つのです。人は対象aの中に住まいます。詐欺へと向かう他のいかなる傾向の空間においてではなく、《他者》の欲望がこの対象のただ中に隠されているのです。」(1965.2.3)

 ここでラカンは、欠如のまま、そのただなかに住まうことはない、と述べています。ですから、先ほどネットワークへの開放を迎えた主体は、この対象によって、再度主体として、泡として閉鎖されます。「つまりそれはこの残余、つまり要求における残余部分の操作の失敗ということなのです。これは主体による回復の原因として現れてきます。それが幻想といわれるものです。」(1965.3.17)とラカンは述べています。つまり、この空無が残余として、つまりはひとつのシニフィアンに簒奪されるかたちで対象となることによって、主体は先ほど言ったエミュレーションモードを完成させ、閉鎖回路として再び機能しはじめることができるのです。

 以下の一節は、ここまでの過程を非常にコンパクトに表しています。


「この主体化の過程を位置づけることに関してはお話ししましたが、その場所はとは《他者》がシニフィアンの原初的な形を取って現れているような場所です。ここで主体は自らを構築します。それは《他者》の場であると同時に、また《他者》の中に築き上げられたシニフィアンの宝庫という所与をもとにして、ということでもあります。それはまた、人間的な生の到来にも、我々が自然の環界umweltと感じているようなものすべてにも、等しく本質的なものです。主体を待ち受け、そして主体がいる場所と主体自身とを引き離してしまうシニフィアンの宝庫、それとの関係によって、主体は、この問いという最初の演算を行うことになるのです。とはいえそれは、未だ存在しない、シニフィアンの一部としてしかでてこない、主体に先立つ、主体を構成するものでもある神話的な次元でなされるものではありますが。「Aのなかに、何回Sが?」この疑問符を付けられた形での演算とは、ここで回答してくるものとしての(A/)、斜線を引かれたAと、所与のAとの間の差として、あるものを導き出します。それは残余であり、主体にとっては還元不能なもの、つまりaです。このaとは、《他者》の場の中での主体の運命の演算全体を通じて、還元不能なものとして残ります。そしてここから、それは機能し始めるようになるのです。」(1963.3.6)

 ですから、ここで大事なのは、ネットワークの中のある種のシーニュ、ないしは原初的なシニフィアンとしての《他者》としてのAと、その断絶によって仮想化されたものとしての、斜線を引かれた(A/)です。・・・あ、フォントがないのですみません。ホントはAに斜線を引いて抹消してあるのです。そして、この断絶は、あるひとつの対象を残余として残すのです。ここではそれはaと描かれています。
 次回は、この対象aについて考えていきましょう。