amalecさんのコメントへの御礼とお返事

 コメント有り難うございます。
 ご存じのようにはてなのコメント欄はちょっとまとまった量は書きにくいものですから、別記事という形にさせて頂きました。ご了承くださいませ。

 さて、ご質問の人格という問題ですが、今回の記事ではいくつかの文脈で使われる人格という言葉が混じってしまっていますね。まず、解離性人格障害ほか、人格障害という文脈で使われる際の人格という言葉。他方で、フロイトとジャネという対比で語る際の人格という言葉。最後に、キツネやタヌキほか、憑き物という発想のある文化圏でも、人格という言葉を使っています。ですから、残念ながら今回の記事では、とくに前二者を中心にした、非常に一般的な意味でのみこの言葉を用いているつもりです。

 もちろん、ジャネ以前にも人格という言葉はフランスの精神医学の領域で使われている言葉ではあったようです。しかし、手持ちの資料の制約もありまして、それがどこまで追えるものなのか、わたしはいまの段階では思想史的な系譜についてはわかっていません。申し訳ありません。
 とはいえ、いくつか分かる範囲で。ジャネの「人格の心理的発達」(1929)は、著者の長年の「人格」概念の研究成果をまとめたものです。この著作からは、リボーの後任としてのジャネがとりわけ「人格」という概念を考えていくことで立脚点を築いていった過程が描かれています。また、ご指摘のありましたラカンの「パラノイア性精神病」が1932年ですが、こちらも冒頭に手短に人格概念の定義を考えている様子がうかがえる箇所がありますね。しかしながら、つまるところ、我々が普通に「人格」という時に理解している、経験と記憶の統一やまとまり、といった平易な理解からそれほど遠く離れたものにはならなかった、と思われるのです。
 この人格という言葉はあまりに一般的になってしまったせいもあるのでしょう。あのフーコーでさえ、「精神疾患とパーソナリティ」というそのままの題名の著作の中でも、パーソナリティ概念のもたらした問題点の指摘はあるものの、パーソナリティ概念自体の内実と成立過程を積極的に追うことは行っていないように思われます。そして、今日主流となったDSM-IVのなかには「〜性人格障害」という言葉が頻出することからも分かりますように、人格障害という概念があり、いちおう人格という概念にたいする定義もあるのですが、それもこれらの統一とまとまりという域を超えるものでは、もちろんありません。
 ですので、最初のご質問に関しては、いささか不十分ながら、リボーからジャネへの代替わりのあたりから完成を見せ始めていたこと、そしてそれは今に至るまでDSMの概念の中に生き続けているように思われる、ということをご返事とさせて頂きたいと思います。

 しかし、精神分析において問題だったのは、「人格を一つのまとまりとして捉えることが出来るのか」という問題です。フロイトの二つの三区分、無意識・前意識・意識ないしエス・自我・超自我のような概念を見ても分かりますように、いま目の前にいる人がどの位置から、そして誰に向かって(仮に分析家が目の前にいるとしても、です)喋っているのか分からない、という大前提があるからです。自我心理学では「自我の健康な部分と協力して」というフロイトの(フェレンツィの、でもありますが)発言を金科玉条にしている観がありますが、この場合の自我の何が健康で、何が悪くて、それらを統合するとどうなるのか、という点に関してはちょっと不明瞭です。
 ですから、幾人かの精神分析家は、この諸々の区分を超えた統一をなんとか考えようとしてきました。ユングにも自己という、自我と無意識の統一体を考えていましたし、ウィニコットにもSelfという概念があります。他方ラカンにはその種の発想は希薄です。強いて言うならば「真理」がそれに近いものであるかも知れない、と私は思っていますし、事実ウィニコットのselfという概念について、1967.12.6の講義でその文脈で話をしている箇所があります。

 自己分析の不可能性は、確かに精神分析において言われることです。私もそうだと思います。ラカンは比較的早い時期に、こういうことを書いていた時がありました。

「主体は、分析を、あなたに向かって話すことなく、自分のことについて話す、あるいは自分のことを話すことなく、あなたに向かって語る、というやり方で始めます。彼があなたに向かって自分のことをはなせるようになったとき、分析は終わるでしょう。」(Ecrits, p.373)

 自己分析の難しさは、どうしてもこの部分が上手く処理できない、という点にあるように、私は考えています。この語りの位相の様々な変化には、どうしても自らの語りと自らとの断絶に気づく瞬間が必要となりますが、自我の機能はとても丈夫ですので、可及的速やかにそのすき間は埋められてしまいます。逆に、精神分析において「自己分析」を行った(と言っていい権利を持つ)唯一の人間はフロイトですが、彼の場合もこの断絶を重要な手がかりにしていたことは確かです。セミネール第二巻「自我」のなかでの、イルマの注射の夢あたりを参照して頂ければ良いのですが。

 私はアルトーについては、白水社からでている著作集に目を通したという以上の知識がないものですから、ご指摘の発言がどのような状況で語られたのか分かりません。ですが、分析という言葉を厳密に取るのであれば、自己分析という言葉と自己が自己について語るということの意味は全く違うものであるように思われます。もちろん彼のこの発言を病跡学的解釈にかけることも可能でしょうし、それはそれなりの成果をもたらすでしょうが、そうはいってもあまり意味がないように思われる、という点に関しては同意いたします。

 ここで、問題は二重です。一方で、自分が自分を語るということの意味。そのなかに、誰が、誰に向かって?という要因を考えてみることは大事なことであるように思われます。他方でそのことを、「自分が自分について語る権利などないのだ」という方向で理解された「自己分析の不可能性」という精神分析的な解釈機械として使用することはないように、慎重でいなければいけないということ。そしてそのなかから、ラカンであれば「真理が語る」というような次元を見いだすこと。今の私に言えるのは、残念ながらこの程度のことです。

 ですがこの点で、クロソウスキーの今回お話しした書物の、とくに前半部分は助けになるところが多いのではないかと思っています(お、いちおうつじつまもあった)。私のお返事の方も長くなりましたが、それはおそらくこの書物にインスパイアされた状態であったため、ご指摘の質問が(その方向からの理解ではありますが)今の私に興味深かったからでしょう。ご容赦くださいますよう。