キツネとタヌキの化かしあい

 クロソウスキー『ニーチェと悪循環』ちくま学芸文庫で出版になりました。単行本は結局買い忘れ、古本もなかなか出回らずで、ちょっと困っていたのですが、おかげさまで廉価で入手。高値で古本買う羽目になる前で本当に良かった。。。

 まあ、その内容についてはまた別に書かねばならないのですが、今回はその一部を読みながらふっと思いだしたことについて。手元にちょっと資料がないので、今回は思いつきのノートに近いのですが(まあ頑張って書いている時でもだいたいそのレベルという話もある)ちょっと解離の話。

 クロソウスキーニーチェは、身体の諸欲動の遭遇の場所、というかたちで、そうとう解離的な描かれかたをしています。というより、まあジャネの言うことを額面通りに受け入れてかつそれを理解する方向で考えるなら、解離というのはその諸欲動の政治学として読む以外に理解しようがなく、そのことは人間観にたいするものすごく大きな変革であるような気もするのですが、近年のジャネ・リバイバル論議の中でも、どういうわけか自我の中心性は疑われていないせいでしょうか、自我が都合の悪い奴を隔離した、くらいの受けとりかたしかされていないようです。で、その隔離によって逆に自我の支配から逃れた部分が別人格を形成して戻ってくるので、自我の統合にのらない以上記憶や意識の連続性は失われる、と。

 その是非は一旦さておくとして、とりあえずフロイトとジャネの対立といわれるもの、抑圧か解離か、と考えてみましょう。抑圧仮説は、自我にとって都合の悪い記憶はいわば「下に」押し込められる、そしてその圧力は別な形で噴出する、いわゆる水力学的モデルを取るものとされています。対照的に解離はいわば「横に」切り離すもの、ですから、それが解離性人格障害に見られる横並びの人格群をモデル化する上で都合がいいのだと。

 とはいえ、この自我が果たすべきだとされている(ことになっていると思われる)「意識の連続性」や「記憶の一貫性」、そのこと自体がそんなに確かなのか、という疑いがそこからは消えています。とある精神分析家は「まあ君が男の子だったとしましょう。で、知り合いの女の子が夜中に電話をかけてきていきなり好きだと言ってくる。ひと晩悶々として、翌朝思い切って電話をかけ直して聞いてみたらそんなこと知らない、といわれた、なんてケースは多いですよ。」という話が好きでしたが(あまりに多いので実体験かと思ったくらいです先生。。。)まあそれはともかく、我々は泥酔して記憶がとんで、その間無茶苦茶なことをして、翌日周囲の人間からその話を聞いても、別段自分のことを多重人格とは思いません。まあ酔うと人が変わる、とはいいますから、人格の交代は起こっている気がするのですが、この場合人格の交代の理由が明確だから気にならないのでしょうか。じゃあ最初の女の子の例は?と考えると、多分その子は「あたし言ってないし知らないよ」と平然とのたまい、そのことになんら疑いを感じないどころか、相手に「証拠は?」くらい言うかも知れません。

 そう考えると、別人格の出現をキツネやタヌキ(ん、たぬきは憑かないか普通)のせいにしてくれたりする説明能力を持っている社会というのは、一見すると未開社会ですが、案外主体の人格をトータルに面倒見てくれる、責任ある社会なのかも知れません。まあそのキツネやタヌキ、いると不都合だからどかせてくれ、というときに、きちんと処置をとれるシャーマンが居るか居ないかは、また別ですが。本当は「それに何の不都合があろうさ」といって、みんな悠々と解離して、おかげで村の中でキツネとタヌキの世間話がそこここで・・・なんて社会を夢想したい気もするのですが、さすがにそれはちょっと甘ちゃんすぎですね。

 そんなわけで、問題なのは、じつは人格の分離と交代ではないのではなかろうか、ということが、まず考えられます。むしろ、その交代と分離に耐えられないのはなぜなのか、と。そしてその裏表ですが、むしろ統合が起こっているのはなぜなのか。


「あるところまでは、諸同一化によって動くモザイク状の人格をもたらすということもできるでしょう。主体の中で一つであるものとしての主体を再発見させてくれるもの、それは第三の次元の介入を必要とします。」(Lacan, Seminaire V, p.333)

 ですから、フロイトの抑圧仮説というのは、この方向でその意図を汲み直してみる必要があると思うのです。解離の仮説の欠点は、結局その未統合にショックを受け、苦しむ主体のことが抜け落ちていることにあるのかもしれないと。問わなければいけないのは、ではその苦しみはどこから?ということ。その時点で、我々はやはり抑圧仮説に回帰します。キツネやタヌキのいない我々の世界の中に、あなたはすでにいて、そのことを当然と思っている。そのこと自体が一つの抑圧です。少なくともあなたは、あなたは一つ、と呼びかけるその声に心を惹かれていることは事実なのですが、その声への愛がそこでは抑圧されています。でも逆に、あなたの知らない別人格のあなたでもあなたはあなた、ということを認めることが出来ないのはなぜなのか、われわれは普段であれば、意外に気安くその作業を行っているではないかと。この否認の作業もまた、一つの抑圧です。それはその声への不信なのですが、その声を信じられないということがここでは抑圧されています。この二重の抑圧のためにかり出されたのが解離の機構であり、その点で解離とは抑圧の補完的なシステムなのかも知れません。

 そんなわけで、やはりこの別人格の問題、ラカンのいうように、第三の次元にたいする関係性を問うことなしには解決しない。そんな気がします。内海健は、『分裂病の消滅』という著書の中で、この「一であれ」という要求の退潮について触れていますが、そのあたりとあわせて考えてみる必要があるでしょう。

 それにしても、冒頭のクロソウスキーともニーチェともなんら関係のない話になってしまいました。というか、ニーチェからは最も遠い感じ。。。

 でもいつかは重なってくる、かも、しれません、ずいぶん先そうですが・・・

 あ、そうそう、追記ですが、この手の話をするといつも思い出すのは「多重人格障害心理療法における治療契約のあり方をめぐって」(精神分析研究43巻1号57−65頁、1999)という佐川眞理子先生の論文。そう、まあやってきたのが別人格だった場合、治療の契約を彼と結んだときに、別人格が「俺は知らないから金なんて払わないよ」という場合もあり得るということですね。

 こうしてキツネとタヌキのユートピアという夢想は、現実を前にはかなく雲散霧消してしまうわけで、やっぱ世の中素人の浅はかさの通りにはうまくいかないものです。。。