労働と日々

 夏の暑い一日、男たちはうだるような炎天下の中野良仕事。家に帰れば汗みどろ。でも、ああ、こんな時に限って女たちは燃えさかっていて、夜のお勤めを求めてくる。何とかしてくれ・・・

 この怨嗟の哀歌はべつだん、最近同棲を始めた私の後輩の話ではありません。ヘシオドスの「労働と日々」からの抜粋です。少々下世話な言葉遣いに要約してしまったような気もしますが、、、まあ中身はこんなものです。いつの世も、男は大変。
 いや、もちろん、良く言われるように「明治男はとっても自分勝手だったので、女たちはほんとお仕事って気分で・・・」なんて話もありますから、これが男ばっかりが言っていい文句なのかは疑問の余地のあるところ。それはいいのですが、すくなくとも

世界各国のセックス動向を調べた年恒例の調査結果

 ちょっと遅くなりましたが、この数字を鵜呑みにする必要はないかも、ということはいえるでしょう。今日は珍しくブログっぽいブログを書いてますね。フランス人が137回、ギリシャが133回、ハンガリーが131回・・・そして日本が46回。最下位だそうです。

 この数字を見ると、おおかたの感想は「欧米の男性が夜の生活に強い」のではなかろうか、という感慨を懐かれるようです。しかし、気を落とすなかれ日本男児

 そういいきれる根拠は、かつてわたくしが知人のフランス人女性と雑談していた時の話に遡ります。
 まずひとつはありふれた話。ヨーロッパでは夫婦間のセックスには義務的な色彩がより強いのです。天然自然、阿吽の呼吸で息が合わないと性交渉に到らない可能性が高い日本人と比べて、端的に回数をこなすと言うだけならこのほうが有利ですね。男女ともに望んだ回数、男が望んだ回数、女が望んだ回数、と三つに分けてみると、ヨーロッパ型社会ではこの三つでいずれも性交渉が実現するのに、日本型では最初のケースだけ。お、そういえば統計的にもちょうど三分の一くらいじゃないですか。

 なあんていうのは、まあちょっと問題を形式的に捉えすぎています。もちろん日本だって義務的なセックスはいくらでもあるでしょうからね。ですが、ここで二番目の小ネタを。
 このフランス人女性、お友達の既婚の日本人女性から、夫がAVを見ているという話を聞いて大変にショックを受けたのだそうです。何がショックかって、彼女にとってはそれはもう浮気と同罪なのですが、当の日本人女性がまったくもってしょうがない、くらいにおおように寛容に話していたことがショックだそうな。たしかに、人によっては風俗でさえ必要悪として受け入れてくれかねない寛容なる大和撫子。AVやポルノ雑誌くらいで目くじら立てない可能性は極めて高いと言えましょう。

 もちろん、上記の調査にもありますように、カップルでAVを見て盛り上がる、などというのは万国共通のようですので、かのフランス人女性といえども、一緒にAVを見ることなどはべつだん問題ではありません。ですから、問題があるとすれば何?と考えると、・・・そりゃ自慰行為に使うからだろうなあ、ということに、いきおいなりますね。

 ここで、フーコーの「異常者たち」を引用しながら、如何にヨーロッパの近代において自慰がタブー視されてきたか、その伝統が脈々と今に生き続け、このフランス人女性の反応となったのか、なあんてことをもっともらしげに語っても良いのでしょうが、どうも話は別の気がします。そう、これ、罪ではなくて浮気です。浮気と同罪。ということは、こうなりませんでしょうか?私のために使うべき貴重なリソースを私的に流用した。それが浮気の定義。だとすると、自慰も多の女性との性行為も、おなじ平面で浮気としてさばけるのだと。

 はい、ですからここで念頭に浮かべるべきだったのはフーコーではなく「人倫の形而上学」のカント大先生。大先生はなんと曰わっておられたことでしょうや?そう、かの有名なる結婚の定義で先生は「両性の合意による互いの性器の独占的排他的使用権の譲渡」と曰わっておられたのでしたね。

 なんて殺風景な。他に言うことはないのか。だからお前は一生独身なんだ。他諸々。みなさん言いたいこともあるでしょう、このあまりといえばあまりな定義。もちろん当時のヨーロッパ人にも、とうぜん今のヨーロッパ人にとっても不評です。ですが、このフランス人女性との会話に、このカント先生の智恵は脈々と受け継がれています。そう、あなたはあなたの性器の使用権を私に譲渡したのだから、たとえあなた自身であっても私の許可なく勝手に使おうなどとは不届き至極。使ったらわたしの財産権に対する侵害よ。ということで、浮気も自慰ももちろん違法です。まあ、男の人の場合はヘーゲルの言うように排尿と生殖とが止揚された器官を有していますから、話はちょっとややこしいですが。。。ま、生殖的な方向性で使ってはいけないということでしょうね。

 しかし、この話、よくよく考えれば極めてSM的な話ではないでしょうか。というのも、サドなんぞを読んでみれば、この種の「ワシの望む時にいつでも性器を使わせる(というか性器に留まらず身体すべてだったりしますが)義務がお前にはあるのじゃ」みたいな契約はいくらも出てきます。そう、ラカンが「カントとサド」を書きたくなった理由も分かろうというものです。もちろん、ラカンが書いたのはこんな下世話な話ではありませんが、まあ「『カントとサド』の裏面」ということで、わかりやすい小ネタを前振りにもっておくというのは、悪くないことでしょう。近代人はみなSMだ、いや既婚者はみなSMだ、なんていうと独身者のひがみのようでいやですね。。。

 ですが、この話の面白いのはたぶんここで終わるものではありません。身体の譲渡可能性っていったいなに?というところまで考えてみなければならないのではないでしょうか。もちろん、奴隷制なら身体の所有権は主人にあるはずで、などなど、すぐにも異論が出てきてしまうので、われながらどこがポイントなのか明確にするのはちょっとまだ難しいのですが、どうもそこに終わらない何かがある気がするのです。それは、たとえていうなら、むしろレヴィ=ストロースの女の交換のほうが近い感じ。身体、いえ、むしろ性的な身体というのは、つねに交換や譲渡が可能であるということと、切っても切り離せない関係があるのではないだろうかと。そういえば、以前のブログでガブリエル・タルドの『所有』の概念が、実際にはネットワークの形成として位置づけられていたことをお話ししましたが、それに近い感じ。自己の身体の一部を、一応は自分が所有していながら、使用権は独占的排他的にとあるパートナーの元にあずけられているということ。それが性的ということの意味なのかもしれません。

 先日、とある懇親会でとある先生と「性的なものがつねに(金銭的に)交換されるものであるのはどうしてだろうか」と雑談していたのですが、その答えは、あんがいこのへんにヒントがあるような気もします。ついでにクロソウスキーの『生きた貨幣』でも読み直してみる必要もありそうです。