同じアホなら

 今日は読書会のまとめから。お話がいいところで切れてしまったので、次回とまとめようかな、とは思ったのですが、復習とイントロも兼ねて手短に。Lacan, Seminaire XVII, L'envers de la psychanalyse, p.200-202くらいのところです。

 統治すること、教育すること、精神分析すること。フロイトがこれを三つの不可能なお仕事、と呼んでいたことは良く知られています。まあ最後のはちょいとばかり手前味噌な気はしますが。
 ラカンは、これを自分の四つのディスクールに当てはめます。セミネール第17巻で導入されたこの四つのディスクール、主人のディスクール、大学のディスクール、分析家のディスクールと銘打たれていますから、そりゃ確かにその通り、それぞれが統治、教育、精神分析に対応していますね。じゃあ四つ目、ヒステリーは?ということに当然なりますが、ラカン先生それは「欲望させること」かな、とか適当なことを曰わっています(seminaireXVII, p.201)。

 以前から、ラカンがある一時期様相論理を好んで考察していた、という話は紹介してきました。で、そこで不可能というのだけはどうしても困ってしまうなあ、ということも。なにせ、古典的な様相論理学では不可能の扱いはえらく悪いのです。可能と偶然の区別の繊細さ、必然ということのもつ重みにくらべて、不可能というのはいかにも簡単に片づけられてしまっています。そんなわけで、不可能ということにえらく時間を費やしてややこしいもここに極まれり、なことを延々と曰わっていたラカンの分析を考察しようにも、あんまり役に立ってくれませんでした。

 まあそんなわけで、ラカンが「不可能」ということばを口にするたびに、色々先回りしてあーだこーだ考えてしまう、という面倒な状態になっていたわけですが、こんな良く知られた話を持ってくるとは思いもかけないことでした。たしかにフロイトの不可能といえばこの三題噺ですものね。

 ラカンの要点は、エージェント(動作主と訳されていますが、代理人というか、代わりに行為させられているというか、実働部隊のシークレット・エージェントマンで影の黒幕は別にいそうとか、そんな感じではあります)とその働きかける他者、働きかけて労働させちゃろと狙っている他者との間の関係が不可能だ、ということです。ここでラカンがあげたのは主人のディスクールの例。主人がエージェント、奴隷が労働する他者なわけですが、主人が具体的になにしろこれしろと命令してくることはありません。そんなんなら自分でやった方が早い(やっかいな女友達を持ったことのある男たちなら誰でも知っていることですが)。それより主人はなんとなくサインを出す。そうすると、奴隷は勝手に主人の意を察して働いてくれる、と。

 一応主人は奴隷を働かせることに成功しているわけですから、別に主人が奴隷を働かせることが不可能なわけではありません。でも、アレをしなさい、と命令することは、そりゃ不可能だということにはなります。そう、小学校くらいの頃良く言われましたね。先生があれをしなさいこれをしなさいと言うのを待っていてはいけません。みなさんは奴隷ではないのですから、何をするのか自分で考えるのです!というお説教。あれこそ奴隷の生産システムであったとは、なんてフーコー的な話でしょう。

 ついでにもう一つラカンの要点をあげれば、この不可能のおかげで、労働の成果は二分されることになるのです。一方では真理。他方には生産物。生産物はこの点で、つねに主人の予期しないものです。では真理とは?ラカンはそれを不能、impuissanceということと結びつけます。不能と真理は仲良し姉妹、と(フランス語ではどっちも女性形ですからね)。ですから、生産物と真理とはなんの関係も持てない、ということになります。このあたりから、次回の内容に入っていきましょう。

 とりあえず今回注目しておくべきなのは、エージェントと労働する他者との間の関係性でしょう。それは不可能ではありませんが、現実的にみれば一応機能はしています。ラカンが「シニフィアンの効果」と呼ぶとき、「効果」ということばの意味は、このような不可能性を前提としながら、なおも機能する、という程度のことを意味していました。そのことを思い出させられますね。恐らく、だいたい同じような意味でとって良いのではないか、と考えています。本質的な不可能性がある種の効果として一応の現実性を構成すること。

 しかし同時に、この不可能性は思いもかけないお釣りを引き出していることにも注意しなくてはなりません。この不可能性によって生まれる現実性は、あるひとつの真理を抑圧しています。それは、この不可能性は不能性であるということです。じつのところ、主人は奴隷を支配することが出来ない。教師も生徒を支配できないように。ですから、この不可能性を一つのトリックのように使って、ポジティブな条件に変えることで(自分で考えなさい、という奴ですね)支配を完成させることになるわけです。でもそこでは、「自分で考えなさいっていうけれど、何をさせたらいいのか、何をさせたいのか、ホントは先生も分かってないんでしょ、というか先生そんな能力ないんでしょ」という不能が。で、「それでこっちがやってみせたことを良い悪い説教して、さも自分が先を見越していたような振り、してたでしょ?」と。

 さらにもうひとつ。この不能のゆえに、主人は能動的行為者という意味でのエージェント、作用因、原動力、中心人物etc...から、代理人に転落します。ではなんの代理人?誰の意を受けて行動している?それを直接指摘することは無理かも知れません。ですが、強いて言うならそれはこの不能という真理に突き動かされて、その不能仮象として生まれたものかも知れません。
 主人のディスクールの例で考えましょう。ここで真理は$、いわゆる斜線を引かれた、実体を欠いた、内容を欠いた、空虚な、ジャコバン的テロルのあとの人権の主体としての主体です。彼が持つ不能性。この不能性を抑圧するために、主人は登場します。この主人が何を考えているのかは分からないけれど、でもこの主人の意を受けて一生懸命行動すれば、なにかいいことあるかも。でも主人は結局何をさせればいいのか分かっていないわけですから、本質的にはそこで得られるものはすべて「予期せぬおまけ、副産物」、つまりは「なにかいいこと」であって「求めていたこれ」ではありません。そもそも何を求めているのか分からない、という不可能性がその前提条件だったわけですから、当たり前のことですね。宝くじみたいなものです。

 ですから、この主人。何を考えているか分からない、意味不明なサインだけを出す主人。この主人はある意味で、かの空虚な主体に踊らされている、と考えることも出来ます。主人は本当は無能なただのおじさん、ですが、奴隷の側が勝手にその仕草をサインとして受け取って、先回りしてあれこれと仕事をしてくれます。奴隷は自分のアイデンティティとしての仕事が得られて万々歳。生産部として、本当の自分=対象aみたいなものまで入手できます。自作自演ここに極まれり、という感じですが。
 ですから、ここで抑圧しなければならないのは「ご主人様の図り難くも玄妙なサイン」が、じつは「なんの意味もない」(あくびとか虫さされを掻いたとか)であって、我々の方がそこに先に意味を見いだそうと頑張っている、ということでしょう。

 オーケストラと指揮者の例をとりましょう。知人が面白いことを言いました。指揮者って、あれ、オーケストラを指揮しているように見えますが、ホントはただ前で踊ってる人ってだけなんじゃないですかね?
 一応元へたっぴなオケのチェロ弾きとして、うーん、一応指揮もしてるんだけどね、とは答えはしました。そのあと雑談で、「でもね、フルトヴェングラーは、『確かに俺の指揮は分かりづらい見づらい指揮だが、そのおかげで団員が集中してこっちを見るからうまく行くんだよ』ってゆってたね」ともいいました。いまにして思えばまさに主人の身ぶりです。つまり、指揮することも(まあ統治することに似ていますが)不可能なことなのです。実際には、そのわけのわかんない棒振りを見てがんばっちゃう奴隷としてのオケ弾きたちが勝手に音を出し、たまにいい音がする、良い演奏をする、というだけなのですから。
 では、「前で勝手に踊っている人」というのは正解なのでしょうか。ええ、ですが半分だけ。残りの半分は?ラカンの例で言えば、そこには真理としての無能が来なければなりません。それは?

 つまるところそれは、団員の無能です・・・

 譜面を前に、なにをすればいいのか分からず呆然としている団員(まあ譜面通り弾けば良いことくらいは分かるのですが、それでアンサンブルになるわけでもないことは言うまでもありません)、その団員にお答えして、前でひとりのお調子者が踊ります。その踊りを見て、団員は音を出します、あたかも「楽曲の意味が分かった!」かのような気になりながら。
 じゃあ、主人ってのはいらないじゃん、ということにならないのがこの話のミソ。つまり、なにか実りのある生産物をもたらすにあたって、この主人という空虚な媒介項を経ずに直接的にそこにたどり着くことは出来ない、ということです。つまりは主人とは不能を不可能に変換する装置。不能によって主人は働かされることになり、その不能を不可能に変換してやることで、すくなくとも効果を導き出すことが出来ます。そんなわけで、「誰しもが思ってもいないよい効果」で(アメリカ人はケミストリーというらしいですね、こういうの)良い演奏という生産物が生まれるのです。
 ですから、かの知人の小ネタは半分だけ正しかったと。この主人の身ぶりの空虚さをあげつらい、まあ勝手にやらせておけばいい、俺たちは俺たちでそいつを無視してもちゃんと出来るんだし、というのは事実。でもその事実が事実になったのは、この主人の身ぶりがあってこそ、ということです。そこで抑圧されているのは、あまりに複雑になった楽曲の一構成要素に還元された、意味の分からない音の羅列を譜面通りに弾かされて茫然自失としている団員たちの無能です。いや、ブラームスの3番のシンフォニーあたりからでしょうか、それ以降(マーラーとか)の曲ってホント譜面だけ見てたらなんのことかわかりませんって。

 ま、譜面通り弾くのも四苦八苦だったへっぽこチェロ弾きの言って良いことではありませんが。。。