病は金なり

 というわけで今日も前回に引きつづき読書会のまとめから。Lacan, Seminaire XVII, L'envers de la psychanalyse, p.203-205くらいのところです。

 前回の話は、不能性と不可能性の話でした。今回の箇所でちょっと気を引かれた箇所はその延長。一つは、生産物が真理とはなんの関係も持たない、どころか、むしろ生産物が他者と真理の間の障害である、ということです。もう一つは、真理を巡ってわれわれがうろうろと、核心にたどり着くことなくのらくらしているのは、真理にたどり着くことが不可能だからではない、この不能さが真理をがっちりガードしているからである、ということ。

 生産物の真理。これは、われわれが(とくに経済学において)つねに追い求めるものです。需要があるから供給を。あるいは供給があるから需要が。マルクスなら、交換価値から使用価値を、あるいは使用価値から交換価値を。生産物そのものに何らかの真理が存在しており、それが(哲学っぽくいうと)現象としての生産物の真理として、その性格を基礎づけるはず、という信念は、つねにこうした循環論に巻き込まれます。主人が居るからって生産物と真理との関係が上手く解決されることはないものね(205頁)と、ラカン先生悪態をついています。
 しかし、このうまくいかなさにめげてはいけません。ヘーゲル弁証法以来、この手の失敗はじつは成功なのである、と居直るのは常套手段。ラカンの場合も同様です。ここには剰余享楽(もちろん、マルクス剰余価値のパロディーです)がやってきます。うまくいかないものは、それ自体に名前を付けて概念化してしまえば、むしろ「運動のポジティブな条件」に早変わり。つまりは、生産物はそれを通じて真理に到る(ことが出来るかも知れない)乗り越えるべき障害として現象してくることになります。ですがその実、邪魔しているのは自分の生みだしたもの。

 不能さとはここに位置するものです。不能と不可能。具体例は?と聞かれてとっさに思いついたのは「種なしであることを隠すために厳重にコンドームつけて避妊する男」

 ・・・まあ我ながらあきれるほど下品なのは仕方ないとして、不能を隠すために次から次に障害を自分で設定する、というのは、とくに強迫神経症の常套手段。この「障害設定」が生産物なわけですね。つまるところ、生産物とはいつもこのようなものです。あなたの不能を隠すためにあなたが自分で生産する障害物。

 しかし、この生産物、というところから、いつもながら会の3/4以上の時間を無駄な雑談に流すわれわれの連想が動き出します。たしかに、この種の不能性/不可能性のコンビは、臨床において良く出てくる、と。この不可能さのゆえにわれわれは果てしないファンタジーを懐くことが出来るわけですから、それはそれは大事にしなければ、とクライアントさんは思っているのではないか、と。
 でも、ここで重要な問題が。症状は生産物なのでしょうか?

 まあ、ラカン先生はその昔、無意識の形成物la formation de l'inconscientと題したセミナーを開講していたくらいですから、あまり文句は言わないかも知れませんが、それにしても形成物と生産物とは違います。古典的に見ても症状は、それ自体が生産物ではありません。でも、疾病利得という形で副産物を作ることは出来ました。疾病利得のフロイトの解説は、たとえば銃で足を撃って兵役逃れをする若者のように(ブッシュ息子ならもっと上手くやることでしょうが)、症状がそれ自体苦痛でも、病気になることでいろいろ良いことも付いてくるから、なかなか治りたがらない、という話でした。「人の目を引くための、同情を引くためのヒステリーを起こす女性患者」なんてのは、そのステレオタイプなイメージでしょう。
 そもそもが、歴史的に見てもとくに男性のヒステリーと保険制度の関連は既にエランベルジェが指摘しています。元もとヒステリーというのは語源が子宮ですし、アリストテレスの昔には子宮がふらふらあちこち動き回るのでかかる病気、だったわけですから、男性ヒステリーってのは妙な話(とさんざん馬鹿にされた、とフロイト先生は曰わっています。エランベルジェによると、それはちょっと誇張入ってるかも、そういう説もそこそこ既に認められていたよ、ということですが。)しかし、そんな形而上学はどうでもいいからこれが病気なのかそうじゃないのか(仮病なのか)判定してくれ、というのは、鉄道事故を補償しなければいけない保険会社からの強い要望でした。そんなわけで、初期の男性ヒステリー患者には、鉄道事故の影響で発症、というケースが頻発します。つまりは、副産物が(この場合保険金ですが)保障されている、というのは、ヒステリーの主体にとって結構重要な問題だったのです。
 もちろん、彼らが仮病使いの保険金詐欺師といっているわけではありません。そうではなく、症状はつねに社会の要求要請と密接に関わっている、ということです。「症状は保険制度によって構造化されている」といいたいくらい。

 しかし、現代において症状は?副産物ではなく主産物、というか生産品ではなかろうか、という、漠たる印象が臨床系のかたから出てきた意見。彼らはもうそれ自体が目的であり、その症状はすでに生産品、というか作品であり、カウンセリングの場はその発表会。彼らの享楽に充ちた顔を見ながら、そんなことを考えたそう。

 もちろん、かつてもそういうことはあったんじゃないの?という指摘は可能かも知れません。でも、いま考えているのは、症状は既に作品としての社会的地位を得たのか、ということです。

 フロイトの昇華の定義では、確かに症状が作品にまで昇華されます。でも、フロイトが力説していたように、それは端的に言って「金になる」ようじゃないとダメ。芸術療法はフロイト的には必ずしも昇華とはならないのです。

 このことの持つ意義がどこまでのものなのか、それはまた難しい問題です。別に金目当て、ということがいいたいわけではないのですから。いまは一旦それは措きましょう。とりあえず言えることは、昨今良く言われる「心理学化した社会」(斉藤環さんあたりが代表者でしょうか)は、どういうことなのか、ということ。
 もちろん、彼らの主眼が、いま社会には心理学的言説があふれかえっていて、何でもかんでもそれで解説してしまい、たとえば本来社会問題であるものも心理学化され・・・といった主張であることは確かであり、それはまったくそのとおり。でも、ここにもう一つ、その基盤になるものを付け加えるとしたら、心理学化された社会とは「症状そのものが作品として認められている社会」ということではなかろうかということです。

 症状が《他者》の承認を得られるものと確信しているのなら、それはもう倒錯じゃないの?という疑問も出てきそう。でも、昨今のこのオタク化していくアートシーンというのは、案外そんなものじゃないかしら、という気さえしてきます。いや、べつに海洋堂(で良いんでしたっけ?)の技術性を否定しているわけではないですよ。しかし、たんに「心理学的言説を垂れ流すインチキ学者やマスコミ、それにのっかってぺらぺら内面の秘密を話したがる自称なんちゃら患者(アダルトチルドレンに始まって、解離性人格障害とか、色々流行は移りますが)なひとたち」を非難するだけでは、ちょっと弱い。そして《他者》の承認、というのを、マスコミ御用学者のお墨付きに還元するのも、これまたちょっと弱い。

 端的に言って「症状は金になる」、という要素が入ってこないと、いけないのではなかろうかしらん、と、フロイディアンとしては考えてしまうのです。多分に倒錯的な意味で。
 まあ、良く指摘されていることではありますが、端的に事実として金になっていることは疑いを得ません。一応リンクしてブログっぽくしておきましょう。

http://www.mainichi.co.jp/life/hobby/game/news/news/2004/03/26-3.html

 問題は、じゃあ、どうしてわれわれの社会は、かつてとはちがい症状を金にすることが出来るのか、ということなのです。それを、消費社会の主体として考えて、この読書会の主題である(ああ無事回帰した良かった良かった)ラカンの四つのディスクールを用いて分析できるか、ということが、今後の課題になりそうです。
 こんどはちょこっとその辺を考えていきましょう。ちょっと先になるかも知れませんが。