あなたにはその価値があるから

 その昔、貧しい上に不細工な井上ひさし青年は、当然のことながらもてない男でもあったそうなのですが、そのうっぷん晴らしも兼ねて、町で妊婦さんを見かけると「お楽しみの余り滓を見せびらかしやがって」と、野次を飛ばしていたのだそうです。ひどい話だ。。。
 しかしこの話の難しいところは、余り滓、ということば。さて、本来であれば性交の目的は妊娠なわけですから、余り滓があるとすると、それは「お楽しみ」のほうが余り滓なはず。赤ちゃんの方が余り滓になってしまうということは、当然のことながらお楽しみが主目的ということです。手段の目的化。逆に言えば、お楽しみ、という概念は手段の目的化の別名でしかないのかも知れません。

 ラカンの剰余享楽という言葉も、それと良く似た感じを与えます。余りというなら、それはもともとあるべき何らかの享楽を前提としていなければなりません。この言葉の元ネタとなった剰余価値というマルクスの概念において、交換価値と使用価値という、二つのもとになるべき価値がありました。問題は二つあってしまったことにあるのですが、それはまた別の話。
 さて、この価値の神話には、もともと「資本の蓄積」という別の神話がくっついています。マルクスを論じるときの有名なポレミークの一つではありますが、その辺の長い複雑な議論の蓄積には素人ですので、そこはさらっと流して、とりあえず資本主義前夜にはブルジョアがため込んだ資本の蓄積の過剰があって、それが資本主義を可能にし・・・とかいうようなお話です。

 じゃあ、剰余享楽の場合、どうするの?というのが今回のお悩み相談。享楽を蓄積するのかしらん。うーん、と悩んでしまうところですが、ちょっと気になる箇所を引用してみましょう。かなり長いですが、知のディスクールと資本のディスクールの交点という意味で、その約5年後のセミネールに先駆ける指摘ですから、頑張ってみたいと思います。


真理にはいかなる内在的な必然性もありません。2+2=4ということでさえもそうです。それは真理です。なぜなら、神にとってはそうであることが喜ばしいからです。デカルトの歩みの豊かさの核心というものは、真理の排斥、主体と知の弁証法の外である、ということなのです。・・・この知は常に腐れ縁のように、ある重要な事実に常に結びつけられ、取り込まれています。それは、その初めから、この知は真理を構築する可能性というものに結びつけられているということです。私はデカルトの前にあったこうした知を、知の前蓄積状態と呼びたいと思います。デカルト以降知は、とりわけ科学的知は、知の生産様式に基づいて構築されることになったのです。それは社会的といわれる我々の構造の重要段階と同時なのですが、それはまた社会的というだけでなく形而上学的でもあります。それは資本主義です。資本の蓄積、それはデカルト的主体が、ここでいう知の蓄積に基づいて確証され基礎づけられる存在に対して取り結ぶ関係なのです。知はデカルト以降、知の蓄積に役に立つものとなり、それは真理の蓄積とはまた全く別の問題なのです。主体とはこの知を欠いたものであり、その知はその現れ、集合、それ特有の増大を見、象徴的な働きであり、また現実的なものと数との緊密な結びつきでもある直観とは別の法で規制されるものなのです。現実的なものと数との緊密な結びつき、それは何よりある知の現実ということですが、ここに、科学の歴史的時代における主体の本当のあり方を示すために分析すべき課題があるのです。すべての近代心理学は同様に以下にある人間存在が資本主義構造の中で振る舞いうるかを説明するために作られたものであり、主体のアイデンティティの探求の本当のところにあるものは、いかにして知の蓄積を前に主体が自らを支えることができるのかを知る、ということにあります。まさしくこの極限状態こそが、フロイトの発見が激変させたことです。発見とはここで、知のない知である思考があるということを言わんとし、実際そう言ってしまったというものです。
(1965.6.10)

 さて、ここではデカルト的な主体が「知の蓄積」という前段階を持っている、ということが指摘されています。つまり、ため込まれるのはどうやら享楽ではなく、知の方である、ということですね。そして、その知は、主体が持っていないもの、主体には欠けたものである、ということになっています。そして、この自らには関係ない知の蓄積を前にして、主体はどうやって自分が自分であることを維持し、支えていけるのかが問題になっていたと。逆にフロイトがそこで行ったのは、「お前らには関係ない知がお前らのことを思考しているから」ということに、なりましょうね。
 そこでラカンがあげているのは、現実的なものと数との結びつき。要は、社会の数学化です。E=MC^2でもなんでもいいですが、われわれの社会における究極的現実はこうした数式の方であって、それ以外ではない、という議論は後年、17巻でも20巻でもよく出てくる話ですから、おなじみの方も多いでしょう。面白いのは、ラカンが資本主義下の主体を可能にするのはこの知の存在をおいてほかない、と考えているところです。デカルト以降の知、それはいわば真理という主人を欠いた知になり、それゆえに蓄積される知となります。科学の発見は、ひとつの発見が別の発見を雪だるま式に可能にすることにあるというようなことはよく言われます(というか、ファインマン先生もゆってた)が、それはいわば知をそれ自体で消費するのではなく、別の知を獲得するために投資することにある、という風に言い換えてみても良さそうです。ここにおいて初めて、知は蓄積され、そして投資されるものになります。

 さて問題なのは、この環境下においては主体もまたこの蓄積される知の一つでしかない、という事実を前にして、主体が自分をどう支えるか、ということだとされています。どういうことでしょう。ここでは、ラカンが消費社会について触れている二つの箇所を援用しましょう。


 全知が主人の位置に回されることになりますと、それが明らかになるどころか、当の問題、すなわち真理とは何かということが少しばかりまた不透明なものになってしまうのです。この場所には主人のシニフィアンがある、というのはどこから出てくるのでしょう。というのも、これは当然主人のS2であって、そのことが示すのは知の新しい専制というものの精髄なのです。そのために、歴史的運動の過程で、おそらく我々が期待したようには、真理とは何かがこの場所で現れてくることは不可能だということです。
 真理の兆しは今や別のところにあります。古代の奴隷に取って代わったものによってそれは生み出されることになります。つまり、自分自身もまた生産物である、よく言われる言い方をすれば他のものと同様に消費可能なものである、そんなものたちによってです。消費社会、そういわれています。ある時期では人的資源といわれていました。それが気に入った人は拍手喝采を送ったようですが。
seminaire XVII, p.34-5

 マルクスはこのプロセスを搾取だと告発します。端的に言って、彼が考慮に入れなかったのは、この知そのものの中に秘密があるということです。それは労働者自身を他ならぬ価値に還元する知です。・・・剰余価値ということでマルクスが告発しているのは、享楽の搾取のことです。けれどもこの剰余価値は、剰余享楽のメモリアルであり、剰余享楽の等価物なのです。消費社会はこの意味を把握します。いわゆる人間的と特徴づけられる要素をなすものに対し、どんなものにせよ現代の産業の産出物である剰余享楽と同質の等価物が与えられるのです。つまり、まがい物の剰余享楽のことです。
 いずれにせよ、それはでっち上げるものです。剰余享楽の似姿を作り出し、そこから多くのものを引き出しているのです。

seminaire XVII, p.94-5

 人的資源、という言葉はハイデッガーもその技術論のなかで使っていましたね。徴用されるもののなかの一つ、体系の中の価値へ還元されたもの。
 この資本主義と知という組み合わせにおいて、知を牛耳る主人はもはや居ません。なぜって、知そのものがいまや主人の位置に来るのですから。では、それは真理が主人となる美しき哲学者の王国で、ここで知は主人の恣意に振り回される道具的存在あるいは道化であることを止めて、純粋に客観的な、それ自体の原則において発展するものになったのか、というと、それは必ずしもそうではない。
 先ず第一に、その知を生み出すのは、同時にその知の対象でもある労働者たちです。価値を生み出すのが、価値に還元された労働者たちであるのと同じように。ですから、人的資源に還元された、資材としての、ものとしての人間、その非人道性を責めてはいけません。それはあまり意味のないことなのです。彼らは、自分を資材に還元することで、資材としての自分の価値を確認し、それを享楽出来るのですから。まがい物ではあります。でっち上げたものでもあります。しかしそれでもなお、そこからは多くのことを引き出すことが出来ます。

 ですから、生産手段を奪われたもの、プロレタリアートが、同時に消費社会の主体であることは、けっしておかしなことではありません。価値に還元されたものが、自らの等価物としての価値を享受すること。ですから、消費社会のアイデンティティとは、「あなたの買ったもの」のことなのです。あなたの買ったもの、それがあなたの価値であり、価値とは資本主義社会における物の本質なのですから、あなたの本質、つまりはあなたの真理です。あなたが買うことの出来た高名なブランド品のレアな商品は、あなたはこれだけの労働をし、これだけ自分を切り売りした、ということの証。ですから、ブランド品を持ったって自分の価値は高まらないんだよ、などと非難してはいけません。まさに「あなたにはその価値があるから」(ロレアルでしたっけ?)人間もモノであり、商品もモノなのですから、より高い商品を持っているということは自分がより高い商品と交換されたと同義であり、つまりは自分がより高い商品であることの証明です(交換価値ですな)。

ですから、ここでラカンがいうように、剰余価値の発生そのものが搾取の証拠、というわけではないのです。むしろ、その剰余価値を主体化してしまうこと、ないしはそれを主体と等価なものとしてしまうこと。大学のディスクールの最初の三つの項、S2→a↓$(こう書くとファミコンのボタン操作みたいだ)は、こういう風に読んでみることも可能でしょう。

 ともあれ、問題なのは、自分自身を生産物として、人的資源として、この資本主義のディスクールの中に組み込んでしまうこと。そうすると、そこで発生する剰余価値が、自分そのものの価値であるように思えてきます。主体はそれを享楽します。剰余享楽ですね。そして、資本主義のディスクールと知のディスクールが限りなくイコールなものとしてラカンにおいて語られているとすれば、それは知とはこの資材-価値-享楽変換装置であるから、ということはできそうです。このことは、同時にある知とその堆積によって形成されるべき主体、という、新しい主体のアイデンティティをももたらすことになるはずですが、それはまた別の話、ということで。