まぼろしのちん○

 今日は読書会のまとめから。Lacan, Seminaire XVII, p.206-7くらいですね。

 ちょっと短いので(私が遅刻魔だからという反省も・・・)次回とまとめても、とも思ったのですが、教科書風にまとめてみるのに便利な一節があったので、良い機会だからやってしまおうかなあ、ということで。

 享楽とシニフィアン。うん、言い出すだけでなにやらとってもラカニアンな感じですね。でも、このへんの話、曖昧は曖昧です。享楽も、「快感と違ったなんかすっごいエクスタシー」みたいな話で漠然と理解しがちになってしまいますが、こうなっては元も子もありません。だいたい、なんでシニフィアンと関係あるのさ、ってはなしです。そんなわけで、この話はちょいとばかり遠回りになっても、とっても常識的な話からはじめる必要があります。

 精神分析の歴史は、ヒステリーの歴史でもあります。ヒステリー。子宮があっちゃこっちゃうろうろする病、とアリストテレスの時代には言われていたそうですが、この話は案外真面目に受け取っておく必要があります。精神分析ではそれが「ファルスがあっちゃこっちゃ(以下略)病」になったからです。なんにせよ、この病因論の印象は覚えておく必要があります。
 人の身体の分節化、そしてコントロールには、自分の意志と、そして身体の生理学的な作用と、その間に何かもう一つあるのだ、というのが、端的に言えばヒステリーの発見です。ヒステリーというと、われわれはもはやちょっと漫画チックな、あの「きー!」って叫んで卒倒しちゃう女の人のイメージくらいしかありません。でも、たとえば「アルプスの少女ハイジ」に出てくるクララのように(そう、あの「クララが立った、クララが立った!」の元ネタの人です。)身体的にどこか悪いわけではないし(だって立てるんだもの)かといって仮病を使っているわけではなくても、体が動かない、麻痺している、というケースもヒステリー。ちなみに、このようにヒステリーの症状はだんだんと歴史を追う毎に症状が小さくなっていき、19世紀後半の大ヒステリーといわれた華やかなりし症状(麻痺とか痙攣とか)は、今ではたぶん自律神経失調症の中にぼんやりと姿を留めるくらいです。もっとも、いま使われているパニック障害というくくりのなかには過去の姿がこれまた薄ぼんやりとですが伺えないこともない気もしますが。

 ともあれ、この病気、とくに麻痺という問題から(なんていったってフロイトはもともと神経学者ですから)考えると、やっぱりおかしい。実際に針を刺しても痛がらないくらいですから、仮病じゃないんでしょう。でも、神経学的には、麻痺する範囲がおかしいのです。神経がやられたんならこっからここまでが麻痺していなければいけないはず、という範囲と一致しない。で、麻痺している範囲をつらつらみるに、どうも言葉や文化で通り切り分ける通りの「腕」とか「指」とか、そういう範囲なのです。神経が言葉を知っているみたいじゃないのさ、という冗談もあったそうですが。

 ですので、この病気、身体と(意識的な)意志の間に、何か一枚噛ませてあって、それはとても文化的、言語的なもので、そこに障害が起きているのでは、という考え方が出てきたのです。

 面白いのは、この障害をとりあえず一つにくくってしまおう、という考え方です。アリストテレスなら子宮。フロイトならファルス。つまり、単に分節化の失敗、というだけではなくて、その切り分け層(という言い方がいいのかしら、とりあえずくだんの中間層です)そのものを、面倒くさいから一つの仮想的器官として扱ってしまおうぜ、という考え方。この「とりあえずひとまとめ」として、つまり全体的なものとして、トータルに把握することの問題性は、また別に生じてくる(とくにラカンにおいて)わけですが、さしあたりそれは措きましょう。そうすると、このヒステリーといわれた症状は、この仮想的器官の障害と考えることが出来るようになりますから、それはそれなりの利点があります。そして、フロイトにとってもアリストテレスにとっても、それはとても性的な器官と見なされていたということは憶えておいて損はないでしょう。

 さて、このくくり方、何に似ているかと言えば言うまでもなくレヴィ=ストロースシニフィアン、ないしはゼロ記号。それ自体は具体的に何かを示すと確定したわけではない、むしろ「確定出来ないもの」をひっくるめて名詞化したような、この概念。「それ以外の何か」の「とりあえずのひとまとめ」ですね。中国だったら気かもしれない、日本だったらもののあわれもののけ姫の、いや物の怪の「もの」かしら、等々、文化によって微妙に、でも確実にこの「とりあえず」は存在します。ファルスがゼロ記号になぞらえられるとしたら、この意味です。そして、もしファルスが男性中心主義的な論理だ、とかいうのであれば、それはファルスが(女性的な、とされているらしい)身体各所にばらまかれた多形倒錯的な性感帯を一つに統合するから、とかではありません。ここでいうなら「多形倒錯」という言葉そのもののように、なにかばらばらな、「それ以外の何か」たちを「とりあえずひとまとめ」にする権利があるのかないのか、という点に帰着するべきです。確かに「何か確定出来ない、それ以外の何か」は存在するけれど、それをとりあえずでもくくっちゃいや、一個一個「ううん、それじゃない」って言うだけでいい、あるいは「上手く言えないけどこれ以外の何ものでもないものがあるのはわかっているんだけど、でもその『これ』をうまくいっちゃイヤだし、でも『それ以外の何か』みたいな曖昧なものじゃなくて絶対これだし」みたいな、そんな論理。問題は「あなた本人は知らないけれどあなたの中にいる誰かがそれを知っていることをあなたは知っている」ということですが、それはまた別にしましょう。

 さて、享楽という言葉は、この幻の器官、仮想的器官が導入されて、初めて生まれうるものです。ですからこれは、身体という自然と激しく対立し、時としてそこから制約を受けつつも、逆に身体を支配することを目指して侵入してきたりもします。でも、この「仮想的器官」が最初に生理学的な身体のどこに取り憑いて、どこから侵入してきたのか、その始めの一歩は、ちょっと特権的なものになる、とラカンは考えます。それがあの、どうにもこうにも翻訳しづらいtrait unaire、一の線、という概念。マークmarque、記入inscription、という風に、ラカンは手を替え品を替え表現します。この侵入を許したあとで、身体は先ほど言った中間層、によって切り分けられる、分節化される、いわば三層構造の身体に早変わりするわけで、ラカンはこれをランガージュのインストール、といいます。いやもちろんラカンがインストールというコンピュータ用語を使ったわけではありません。instaurer、基礎を築く、設立する、という言葉を使っただけ。でも、生のハードディスクがファイルシステムに分節化されてフォーマットされて、その上にOSが・・・みたいな光景とどうもかぶります。

 問題は、この仮想的器官、仮想だけあって、個人の生理学的身体に限定されない、というところから、話がややこしくなってくるのですが、これはまた別の話。

 とはいえ、この話、実は元ネタがあります。私の知り合いのとある女性、一時期「自分は幻のちん○をもっている」という確かな感覚を得たことがあるのだそうです。どこにあるんですか、と聞いても、日によって違うらしく、今日は腕とか今日は指とか、いろんな所をうろうろしていました。たまにその部分がふくらんだりしぼんだりするそうですから本物です。そして、その大きさ雄大さには絶対の自信があったそう。。。当然のことながら、その感覚がある間の全能感ったらなかったそうです。

 いや、もちろん十分に精神分析的な知識のある女性でしたから、そういう知識に影響されて、ということもあるかもしれません。しかし、身体的な感覚というのはそう簡単に裏切れるものではありませんし、恐らくそのときの彼女の感じていた快感の身体性はほんものでしょう。そして、これ、もしかしたらそれこそアリストテレスの昔から報告されている「幻肢」に近いのかも知れない、と思ったのです。

 切られてもう無くなってしまった手足の感覚、あるいは脳卒中等で麻痺してしまったはずの手足が痛むとか、そういう感覚のことを幻肢といいまして、これは別にさっきの子宮の話とは違って、アリストテレスの昔から報告されているとは言っても、今でも立派に通用している現象です。麻酔科のお医者さんの知人も精神医療的なことに麻酔科がどうしても関心を持たねばならない理由の一つとおっしゃっていた記憶が。
 もちろん、幻肢は普通「幻肢痛」といって、痛いものなのです。沈静化して消えるものでもありますし。ですが、身体の生理学的、ないし神経学的な分節化のほかに、何かもう一つ、を伺わせてはくれるエピソードです。
 ごくごく簡単な仮説としては、たとえば腕の切断があったとして、じゃあこれまで腕を司っていた脳の部署が余ってしまう、だからもったいないので肩の部署に吸収合併しましょう、というときに、その合併騒ぎのごたごたのあおりで、肩を動かすときにかつての腕の部署が使われることになるわけですから、そのときに新しい方の肩の感覚ではなく腕の感覚が蘇ってしまう、みたいな説明もあるそうです。でも、脳のどこかには、どこにも使われないがゆえにどこにも流用される部署があって、それが言語野と身体を取り結ぶことに関係していたら・・・とか、それが性的部位とどう関連があって・・・ちょっと夢を見てしまうのですが、まあただでさえインチキ臭い話がこれ以上擬似科学主義的インチキになっても困るので、この話はこのへんで。

 それにしても、幻のちん○がなくなったあと、鬱にならないんですか?と聞きましたが、「感じなくなったけどどこかにある!」と断言した知人。女の人は本当に分からない、と痛感した時でしたが、あれは女性に普遍的にとはいわずとも、かなり頻繁に見られるのでしょうか。うーむ。。。