存在のスープ

 さて、前回は春の感傷とともにラフマニノフを紹介しつつ、気を取り直してモッラー・サドラーの「存在認識の道 : 存在と本質について」(井筒俊彦訳・解説、岩波書店、1978)を紹介する、というところまで話をしました。
 この本を紹介しておこうと思ったもう一つの理由は、先日友人にエティエンヌ・ジルソンの『存在と本質』を紹介したはいいものの、またしても唐突な紹介だったのでいったい存在と本質がどう違ってどんな意味があるの、という前提さえ共有できていないという乱暴なことになってしまっていたのをほったらかしにしたままである、という反省もあったためです。そして同時に、わたくしの春の感傷をいささか哲学風味に弁解する役にも立ってくれる、かもしれません、というささやかなおまけ付き。ついでにいえば、こういう本家本元的な一元論の理解は、このあとすぐに役に立つ、かもしれない。


 というわけで、前回までの議論では、神秘主義形而上学の融合としての、第二期イスラーム哲学、イブン・アラビーやスフラワルディーの哲学をうけ、モッラー・サドラーさんがおのれの哲学を形成していった、という井筒先生の解説をなぞっていきました。とくに、スフラワルディーさんの光の哲学について、てみじかにご紹介したわけです。
 では、モッラー・サドラーの立場の独自性とはどうなるのか、というと、ここで、存在と本質、という言葉を巡って、スフラワルディーさんに反論するのが、モッラー・サドラーさんの立場、ということになるのです。

 どういうことでしょう?

 まず、スフラワルディーさんの議論では、光は本質とされていたことに注意しなくてはいけません。では本質ってなによ、ってはなしです。ここでは、たとえばリンゴを例にしましょう。リンゴは熟するにつれて赤さを増します。このとき、赤さの度合いないし段階は無限です、つまり、無限の段階を経る、にもかかわらずその「赤さ」という本質は、同じまま、つねに一つの本質です。つまり、現実に起こる様々な熟し具合の変化は、赤さという本質そのものの中に実現していくということになります。ここでは、スフラワルディーさんが光とその諸段階を例にしていたことが大きな影響を及ぼしていることがわかります。ただのたとえではないのですね。だって、そう考えないと、赤さのそれぞれの段階が本質ということになってしまい、そうすると赤さ一つをとっても無限の数の本質があり、ということはあらゆる事物に個別の本質があることになってしまい、そうすると共通のものとかそれに基づいた類比とかあり得ないじゃん、ていうかそんなに乱立したらそれはもう本質じゃないじゃん、ということになってしまいます。ものをくくって考える意味がありませんよね。だから、本質は一つ、しかしその強度に無限の段階があると考えるのです。*1

 そうすると、うん、もしかしてこの世には本質というものだけがあって、それがあるとき存在という形をとる、つまり存在が偶有的に宿る、ということなのか?と、はなしを極端に進めることもできます。じゃあそのときその幽霊みたいな本質さんたちはどこにいるのよ?天国に本質さんたちという美しい魂のお住まいがあって、そこからたまたま肉というものに宿ると言うことなのか、とか、考えてしまいますね。
 そして、アヴィセンナの偶有という言葉をトマス・アクウィナスはじめ西欧中世の哲学者は、ちょうどそういう意味で理解したのです(ああ、ジルソンに戻ってきた)。範疇論的偶有の意味にとった。すなわち、白さとか赤さなどのように、実体たとえば花に対して、外から偶有しそれに宿る属性を意味するものと考えた、と。たとえばチューリップという実体があり、それに外から赤青黄色きれいだな〜という属性が宿るけど、その属性は偶有であって、チューリップという実体の本質の定義には関係しない(黒いチューリップとか青いバラはどうだとかいうツッコミは無しの方向で)。それと同じように、存在というのも、ということになります。これ、もしかしたらデジタル化、ネットワーク化が進んだ社会だったら別の意味を持ちうるのかしら、という気はとってもとってもするのですが、それはさておきましょう。

 この種の、本質と存在の問題が、ややこしいまでに混乱を招く難問にもかかわらず深刻なトピックだったのは、天地創造なる神話を持つからだ、というのが、井筒先生の解釈。つまり、天地創造っつうからには、その世界は存在することも存在しないことも可能だったはずです。そしてなぜか神様は作った。ですがそれは、存在することが事実として始めから与えられているアリストテレス的世界ではないのです。
 したがって、ものが存在状態に入る前はどうしていたのさ、ということが、どうしたって問題となります。ものがものでありながら、しかも現実には存在していない状態、それが本質です。アヴィセンナはそのような純粋本質を本性タビーア(ラテン訳natura)と呼びました。そして、それが神の創造行為によって存在の領域に入ってくるのです。したがって、アヴィセンナは存在とは本質に偶成して本質を限定する一種の偶有と見たのでした(220)。この区別をイスラーム哲学に導入したのはファーラービーであり、また、その本源は『分析論後書』において、三角形の定義と存在との無関係さを論じたアリストテレスにまで遡る(222)と井筒先生は論じます。気宇壮大ですね。

 さて、ここで問題なのは、この存在と本質の区別、というのを、どのレベルの区別と考えるかです。先ほどわたくしがからかったように、本質様ご一行のいらっしゃるよくわからない天国でのステイタス、などというものは、この本質様ご一行たちを実在的なものとして、存在と区別することです。でも存在しないのに存在していてそれが実在的、ああ、頭がぱーんとなりそう。
 でも、そうじゃない、それはアヴィセンナに対する誤解だったのだ、と井筒先生はおっしゃります。この著作でモッラー・サドラーも力説していることですが、実在のレベルでは存在と本質は全く分かつことができない。たんに、概念的・理性的な分析操作を行うと、そういう区別もできる、というレベルの区別でしかないのです。サドラーご本人の弁を聞きましょう。

「存在は、それによって本質が始めて実在者となるところのものであって、両者は外界では事実上完全な一体をなしているが、ただ我々の意識内で、概念的に分解操作を加えられ、その結果二つの別のものとして認められ(そこに始めて本質に対する存在の偶有と言うことが起る)という結論にどうしても到達せざるを得ない。」(48)

 そういう風に考えると、むしろ基になるのは存在のはずだ、というのが、モッラー・サドラーさんのご意見。それを、井筒先生はこうまとめています。一寸長いですが3カ所、どれもとても明解ですから長くてもご心配なく。

「モッラー・サドラーの説く存在は根本的に動的なものである。それは刻々に新たな形を取り、刻々に変易しつつ四方八方に散渙して、繚乱たる多者を創り出してゆく。絶対的一者としての存在は、それ自らの内的動力の向かうまま千々に乱れて多者となる。多者の世界は存在者の世界である。そして存在をこのように転成させるところのもの、絶対一者を多者とするもの、存在多化の原理を「本質」という。」(217)

「唯一者である存在がそれ自体の内的動力によって拡散し、存在者になる、と私は言ったが、厳密に言えばそれは正確な表現ではなかった。・・・厳密には、存在が自己を多化して存在者になるのではない。存在は自己を多化して−−−ということは存在が自己を様々に限定して、ということだが−−−個別的存在になるのである。唯一絶対の存在が多的・相対的な存在として自己/を限定する。始めの絶対的非限定態においても、後の相対的限定態においても、存在は終始一貫して同じactus essendiである。」(217/218)

「始めから存在の中に本質がひそんでいるわけではないが、存在の自己分節の指標として、可能的に本質化への偏向を認めるのである。この意味で存在は動的なリアリティーである。・・・存在には始めから、無数の方向に向って自己展開する本源的傾向性が備わっているのであって、この本源的内部分節の指向する線に沿ってそれは限りなく、重層的に多者化していくのである。」(218)

 この、本質化への偏向、それは、以前にご紹介したドゥルーズをどこか思い出させるものです。そう、結晶という考えをドゥルーズは用いました。しかし、その結晶には結晶に特有の構造があり、言ってみれば存在のスープのようなそのありかた(ヒュポスタシスといいたくなるけど)も、やはりその構造にしたがって結晶化し、析出されていくはず。

 そして、哲学でいうところの可能的も、これにしたがって置き直されます。可能態とは、とは現実的な存在と非存在、有と無に対して未決定の、無記的な状態にあるものとされ、そしてその均衡状態を破るものが原因と呼ばれることになるのです。サドラーさんに言わせれば、こういうことになります。

「もし一切のものを唯一の存在が貫通しており、それら全てを通じて一つの連続したリアリティーがあるとすれば、浮動的連続量や、流動的連続量の構造と同様で、その連続体を(無数の部分単位に)分つ区分は、いずれもただ可能的にのみ存在することになり、そう考えれば、(前説で批判したような)矛盾は全く生じないのである。」「なぜなら、(この考えによれば)一つの連続的リアリティーの分節あるいは区分に対応して措定された無数の「種」はただ可能的存在をもつだけであって、現実的な存在をもつわけではないことになるから。つまり、全体が一つの連続的存在(のリアリティー)で存在しており、それの一者性は現実的であるが、それの他者性は可能的であるにすぎない。」(54)

 ですから、一般的なアヴィセンナ解釈、つまり、なんかよくわかんないけどなんか微弱な、無限小的な(ドゥルーズなら微分とか持ち出すのかしら)存在性とでもいうべきものが、どこかにわけのわからない仕方で可能的存在者として存立していて、次に存在というリアリティーが原因によって注入され、可能的存在者が必然的になる、というアヴィセンナ解釈は間違っている(244-245)と井筒先生は論じます。概念的思惟の領域においてのみ、存在は本質の偶有であり、実在界では存在のみがあり、それが本質によって様々に限定され変容するのだ、と。存在そのものは絶対的非限定者であり、そこにはもののかすかな兆しすらない、つまり本質的には無なのですが、しかし、この絶対無としての純粋存在は自己限定の成形的傾向をもちます。この自己本有の多者化傾向に促され、存在は本質的に存在するものとなるのです。つまり、本質は存在の内的自己分節、ということになります。それは外的限定ではなく、存在内奥からの自己限定である(247)と井筒先生はまとめられています。サドラーさん本人に言わせると、なんかちょっとジョルダーノ・ブルーノを思わせるこういう発言になるのがおもしろいところ。

「第一質料にとって、可能性をもつということがすなわち現勢態なのであって、この(本源的)可能性を現勢化するために、何かもう一つ別の能動力を必要とはしない。換言すると、第一質料の現勢態とは、まさにそれが多くの物にとっての可能態であることに他ならない。」(108)
「存在こそ個々別々の形においても真の実在であって、(唯一の実在である存在をかく個別的に限定するところの)本質は有無中間に定立された「不変の原型」にすぎず、それらは本当には未だ全く存在の匂いすらかいだことのないものである。こう考えれば、個々の事物の個別的存在は、いずれも真の(神的)光明、永劫不滅不変の存在の四方八方に拡散した光に他ならない。ただ、それら個々別々の存在の一つ一つに(存在限定者としての)様々な本質的性質が備わり、様々な理性的意味が備わっていて、それらの性質や意味がいわゆる本質となるのである。」(117)


 こうして、個体化、という問題に対しても、非常に魅力的でおもしろい回答が与えられることになります。つまるところ、個体化とは本質になる、ということであり、本質とは存在の自己限定であり、それゆえに、現実問題として、というか実在界において理性が目にするものは、すべて存在するものは個体化したものとなるのです。これもサドラーさんのご意見を直接伺いましょう。

「全ての本質はその本性上、個体化、すなわち個別的に存在することを許容する。しかるに個体化するということは・・・存在するということと全く同一であり、・・・存在と同時にのみ成立する事態である。ところが、存在が本質に必然的/に随伴する属性ではあり得ないことはすでに証明したところであるから、個体化が本質に必然的に随伴する性質であり得ないことは明らかであろう。」(128/129)
「(太源から)第一義的に発出したもの、他者性の様相において第一次的に創定されたものは、様々の現成の仕方そのもの、すなわち本来的に始めから個体化された形での存在であると考えざるを得ない。(存在がこのように)多化して創定されるからこそ、それに伴って、本来は単一である本質が多化するのである。」(130)

 うん、でもなぜその存在の自己限定がそのかたちでの自己限定にならなければいけず、その原因というのが(たとえ内的な原因であったとしても)どこでどんな風に発現するのだろう、という問いは、やはりここではひらかれないままですね。やはり、この問題は引き続き自分で考えなければいけないようです。

 さて、こうして、いちおう、結構な長さを費やして、春がわたくしになり、桜になり、水面になり日差しになる、ということを、なんとか正当化してくれるような哲学を紹介してみました。ですが、むしろ重要なのは、この著作での井筒先生のお仕事のスタイルです。該博な知識に裏付けられた適切かつ詳細な、しかし適度に短い訳注、カッコ内での本文の補足、そして壮大でありながら明解な解説。そういう大きな視点を持っているからこそ、おかげで、存在と本質という、いかにも西欧的な問題や、あるいはそれを論じたジルソンの浩瀚な著作に対する予備知識と訓練としてひとさまに紹介するのにも、役に立つというわけです。ああ、なんという巨匠のスタイル。いちおうは訳者としても仕事をしたことのある身としては、まこと哀しくなってしまいます。

 
 そう、その愕然とするような落差を目の当たりにした哀しみのあまり、こうして、春の感傷もあっさりとおわりをつげることになるのでした。

 桜ももう終わりですしね。

*1:そうすると、こうした考えから見れば、存在は抽象概念であって、実在界には対応物がない、ということになります。これは、日本人ですとむしろよくわかる、つまりBE動詞にあたる単語がないんだからあの「存在」なんちゅう議論は意味があるんかいのお、といってハイデガリアンをいじめるときのようなアレです。ちなみにこの著作ではやっぱり似たような議論がペルシャ語アラビア語の差異に関して行われていた、などという小ネタもあって、なるほど今も昔も考えることは一緒よのお、という気がしてきますね。