2005-01-01から1年間の記事一覧
さて、これまで二回を費やして、デリダの『死を与える』を考えてきたのでした。 最終的に、今の段階ではどうしてデリダが「死」という問題と秘密という問題を強引にリンケージさせようとしたのか、わたくしは今ひとつはっきりと判っていない、というのが正直…
さて、デリダの解釈するパトチュカと限定してのはなしですが、ここではこの内面性、不可視性について、ダイモーン的からプラトン的な移行に関しては詳細であり、かつプラトン的からキリスト教的への移行においてはやや手薄です。そこを補う形でアブラハムを…
責任ある生は、何ものか贈与として考えられている。結局のところ贈与とは、としての性格を持ちながらも、人間が永遠に従属している到達不可能なものの諸特徴を−すなわち秘儀の諸特徴をも示すようなものなのである。この秘儀が最後の言葉を握る。(パトチュカ)…
さて、前回は、バディウの『聖パウロ』から、ギリシア的、ユダヤ的、そして使徒的言説についてのところまで確認していったわけでした。そして、ギリシアとユダヤの相補性についてを。 しかし、なにはともあれ、全体と例外は相補的、という主張は、それほど目…
先だって音声・画像認識の研究者さんとお話をしていたときのこと、こう聞かれました。びっくりする、恐怖、不安というのはどういうことさ、と。 確かに難しい問題です。さしあたり、感情という要素が入ってしまうと問題がややこしくなるので、問題を絞ろう、…