2005-01-01から1年間の記事一覧
今日はちょっと、普段の読書ノート風というよりレビュー風にいってみましょう。見出しを付けるとしたら「あの電波系の大著、ついに翻訳なる!」というところでしょうか。そう、ジュリアン・ジェインズの「神々の沈黙」がついに翻訳されちゃったという意外な…
前回は、性別化のマテームに、ちょいと様相論理を掛け合わせてみたのでした。 では、この様相論理と性別化のマテームの組み合わせから、何が読み取れるでしょうか。そのへんを手短にまとめて、この全10回となった少々長すぎる駄弁のまとめに代えましょう。 …
さて、前回からの流れを踏まえて、性別化のマテームをもう一度確認しましょう。 ここで、女性の側から向かう二つの矢印、それは一方ではこうした《他者》の享楽のメタファーとしてのファルスに向かいます。「どこにあるかが知られているもの」「その所在を把…
さて、前回は、《他者》の空虚、という話をしてきました。 ちょっと整理しておかねばならないのは、こういうことです。われわれは、∃x¬Φx、女性にとってのドンファン的な存在のことを、そのように書いてきました。去勢されてない奴がひとりはいる、ってこと…
http://huh.34sp.com/wrong/2005/03/24/scoop/スラヴォイよおまえもか・・・(いや、べつに彼と結婚の約束をしていたとか彼と仲の良い友人であるとかそういうことはないのですが)3月24日付けですから、知っている人はもうとっくに知っているのでしょうが、…
さて、前回は、《他者》の享楽、というところで話は終わったのでした。 《他者》の享楽、という言葉は、ラカンの文脈では、60年代末までくらいは確実に、倒錯者の目指すもの、というような位置づけをされています。神経症者が《他者》の要求、精神病者が《他…
さて、これまで延々と見てきた、ラカンの性別化のはなしでの、この「すべてではない」は、以下のはなしに適用されるもの、ということにすると、だいぶ明快になってくる感じになります。 「すべての男でないものは女である、人はそれを認めてしまうようですが…
前回までは、エディプスコンプレックスにおける男女差のねじれ、というところから、男性の性別化のロジックにおける古典論理、という視点から問題を整理してみました。端的に言って、排中律によって強いられる「未来に関する決定論的な見解」によって、男性…
さて、前回は言い訳と「お勉強」だらけでした。今回は、それに群盲象を撫ず、な解釈が加わることになるので、混乱は目も当てられません。 とはいえ、ある程度の基本的なはなしだけでも押さえておくと、ラカンが性別化のマテームで、何をいいたかったのかは何…
知らない話に首をつっこむべきではないし、生半可な知識は人に話すべきではないし、まあまあ、大人になると、黙っていた方が良いことのほうが、世の中にはいっぱいある、ということを痛感するわけですが、研究の都合上(しかも、ラカンのように思いつきで無意…
「すべての人間は去勢されているか、いないかである」 というネタが前回から続いています。 まあ、論理的にはこの命題は真。だって、そりゃ二者択一の両方を候補にあげているんだから、どっちかには当たるでしょ?というのが、排中律のルール。 でも、前回は…
約束をしてよ わたしと その甘い毒を 分けて 約束は遠い日が いい 場所だって困難なほど いい元ちとせ「約束」 詞:上田元 いきなりなんだという気もしますが、これ、昔とある後輩の修論に目を通していると、どうにもこうにも頭の中を流れてきた音楽です。(…
「性的行為というものの主観的なドラマ化の中で、女性を示し、女性に対象aの役割を押しつけるものは、その構造の中にあります。女性は問題のものを、つまりくぼみを、空虚を、この中央に開いた欠如というものを、女性が隠している限りにおいて。そして、これ…
それでは、女性と見せかけの話、第三回目。前回までは、女性の「見せかけ」が行われる空虚の場、というところまで話を進めてきたのでした。ここで、セミネールの第18巻の段階から、20巻に至る過程で、見せかけという用語がその出典たるジョアン・リヴィエー…
さて、前回は女性の本質(?)あるいは男の嘆き節としての「見せかけ」について話をしてきたのでした。 「むしろ彼女は、私が《男》の倒錯と見なしている倒錯へと向かいます。これによって、彼女は周知の仮装に導かれるのです。この仮装は、そのありがたみのわ…
その昔、お釈迦様は、女人救い難しみたいなことをいったとかいわないとか、孔子は女子と小人は養い難しと言ったとか、ニーチェは「女の最大の技巧は虚言であり、最高の関心事は、外見と美である。」(善悪の彼岸第232節)とか言っていていたとか、まったく昔か…
ここまで二回、クロソウスキーの「生きた貨幣」を見てきました。 クロソウスキーせんせいの夢は、内的倒錯がそのまま交換のエコノミーに乗って流通していく可能性、に賭けられていました。交換、それはとてもセクシーなものです。 そのための基本方針はこう…
クロソウスキーせんせい曰く、欲動の動きが商業的性格を持っているということ。ホンマかいな、と誰でも思います。欲動って世知辛い現実原則の跋扈する市場とはいちばん遠そうじゃん、と。ですがこれはフロイトの昇華論を思い出させます。フロイトはいいまし…
先日、女性の身体イメージを拒食を中心に論じた後輩の論文を読んでいたときのこと。 それ自体はとてもよい論文だったのですが、やはり年来の疑問がむくむく頭をもたげてきてしまったので、やっぱり聞いてしまいました。「こういうとき、女性の身体の使用価値…
さて、前回はショーレムの論文を読みながら、『無からの創造』という問題を考えてきたのでした。 ですが、こうして無が神の究極の属性とされるようになると、話はそれはそれで面倒を引き起こします。なんと言ったところで、聖書の神は人格神としての、啓示の…
以前ドゥルーズのヒュームの話をしたときのこと。「反射」という問題について、ちょっと触れたのでした。 べつだんドゥルーズにとどまらず、一元論的な傾向の強い論者は、この部分に共通のネックを抱えている、といってもいいように思われます。自己展開、と…
あんまりブログらしい内容で書いたことがない、ような気もするこのブログですが、今回はそれっぽく。というか、書いた記事(http://d.hatena.ne.jp/rothko/20050129)に対する責任もありますのでワンポイント小ネタとはいえ載せないわけにはいきません。。。ド…
さて、前回に引きつづき、ドゥルーズに学ぶ主体の作り方、第二回がやって参りました。ん、ベルクソンの話もいれると四回目ですね。 ここまでのドゥルーズの議論を追っていくと、そろそろ主体を特徴づける主体性を考えてみる必要があることになります。ドゥル…
『劇場の比喩にわたしたちは惑わされてはならない。・・・・・・それらの場面が表象=上演される場所や、その場所を構成している材料については、わたしたちはどれほどかすかな認識であろうと、もちあわせていないのである。』(『人性論』二巻103-4) ヒューム…
それでは、前回に引きつづき、ボグダーノフさんの略歴を紹介しておきましょう。1873年生まれ。モスクワ大学では理数学部自然科学科で、ハリコフ大学では精神医学を学ばれたそうです。もっとも、学生運動に連座してちょいちょい流罪とか、そういうのがこの間…
さて、前回は「物質と知性の同時的発生」というベルグソン&ドゥルーズの話をしていたわけでした。ちょいと電波?電波が自然哲学なんでしょう、という某M澤師兄のツッコミはその通りなのですが、しかしこの際ですからちょいとでは済ませません、さらに吹っ飛…
さて、このイマージュを、ドゥルーズはベルグソンに倣って、もう物質と区別していないことを指摘しておくべきでしょう。バークリーから脈々と流れるこの思想史的系譜。でもなんで?と聞かれるとドゥルーズはこう言います。客観的なものとは潜在性を持たない…
かなり昔のことです。研究室の先輩から電話がかかってきました。 「君、米三合余ってないかね?」 ここを興味を持って読んでくださる方はおそらくよくご存じかと思いますが、大学院生、とくに文系の院生はみんな貧乏です。というか怒濤の貧困生活です。スイ…
ヤナーチェクではありません。前回に引きつづき、デリダ『秘密の文学』を。 この、アブラハムの置かれた可哀想な状況をデリダはこう描いています。 「絶対的秘密であり、共有していない秘密に関して共有して守るべき秘密。絶対的な非対称。」(301)「それはど…
前回までは、デリダの『死を与える』について延々と書いていたわけですが、この本にはカップリングが付いています。「秘密の文学−不可能な父子関係」ですね。こちらは、よりアブラハムの物語に密着したはなし。でも、ここで注目してみたいのは、前回に続き神…