6 情念から知的愛へ


 ここまでの『道程』で、われわれは自由な人間の形成、すなわちいかにして人は賢くなるかを見てきた、と、クリストフォリーニさんはいいます。とはいえ、自由と賢いこととはいっしょとはかぎらない。ほな、このふたつの語が相互にかつ必然的に含意するところは何なのか、というはなしになります。自由とは情念との関係で登場し、賢さは認識の探求についての文脈で登場する。しかし、その両者は次第に錯綜していきます。この『道程』では、それをさぐろうではないか、とクリストフォリーニさん。

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5 神の属性から人間の本質へ

 というわけで、前回は第二種の認識、第三種の認識について話をしてきたのでした。今回は、じゃあそれはどのように使われるものなのか、というところから話を始めよう、と、クリストフォリーニさんはいいます。それは第三部、人間の感情ないし情念について論じた箇所に具体例が挙げられている、と。

 さて、第二の道程でも述べましたように、人間は思惟と延長というわれわれが知ることの出来るふたつの属性の双方をつうじてアプローチできる唯一の対象です。しかし、それがどういう意味かは、この箇所を通じてはじめてわかることになります。

 『エチカ』の第三部は、人間の本質についての妥当な認識に到達するのはどのようにしてなのかを示しています。そして、人間の本質とはある個物の本質なのです。その探究のもといとなるのは身体と精神というふたつの無限の様態で、これは属性と有限な事物のあいだの媒介として機能します。これのみが、直観知の具体例としてスピノザがあげている唯一の例だとクリストフォリーニさんはいいます。無限の知性であれば無限の属性を知り、万物に直観知を持つはずですが、限られたふたつの属性を元にしたとしても、個物の妥当な認識を導くことは出来るはず、たとえば延長の妥当な認識を元に身体の本質の妥当な認識を導くことも出来るはずですが、スピノザはそうはしません。かれが元にするのは共通概念なのです。それゆえに、スピノザは第二種の認識を元に議論を展開させます。

 では、人間の本質はどのように導き出されているのか。それは、『エチカ』第三部の定理2の備考に完全に示されているとクリストフォリーニさんはいいます。ここでは、心的世界と身体的世界は人間のなかで結合され統一されたものとしてではなく、分離されたものとして登場するのです。精神は思惟に属し、身体は延長に属する。相互のあいだに影響はない。そうした影響関係の確かな印は示されていないのです。ダマシオが聞いたら怒りそうな読解です。つうか、スピノザの理論では精神と身体は異なったふたつの属性のふたつの様態であって、この属性の唯一の接点は神のうちにのみあるはず。だから、身体と精神について語っても人間については何も知ったことにはならないのです。精神は身体の観念であり、人間の精神は人間の身体の観念であるといっても、人間という存在の特殊な様態については何も教えてくれることはない、つまるところ、属性という観点からの説明では、このふたつは分離されたまま。たとえ、精神と身体の結びつきがあるじゃないか!といっても、それは人間身体についての観念があります、という以上の意味ではなく、それは他の物体=身体に関してもみんなおなじことが言えるのですから、とくに人間について語っているということにはならないのです。

 だから、人間の本質を語るには別の視点、属性ではなく、それを接触させる神が必要です。いや、でもマルブランシュ的な意味ではなくです。どういうことでしょう?

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4 想像力から学知へ


 さて、ほかの「道程」とちがって、この第四の道程はとっても短く、一部の例外を除いてほぼ『エチカ』第二部定理40備考2に絞ってお送りします、と、クリストフォリーニさん。見事な割り切り具合です。

 というわけで、浅学非才の身としては、まずはてっとりばやくこの備考の内容を思い出しておきましょう。簡単に言うと、ここでは第一種、第二種、第三種の認識が説明されています。第一種のそれは想像(表象imaginatio)あるいは意見(opinio)と呼ばれるたぐいのもので、知性によって秩序づけられていない、経験的な認識やあるいは記号を見聞きしたときの観念とそれに類似した観念から形成されるものです。第二種のそれは事物の特質について妥当な認識を有するところから生まれる認識で、これは理性(ratio)ともよばれます。第三種は直観知(scientia intuitiva)、というわけで、この「道程」の訳として掲げた「学」は、ここにならえば「知」と訳すべきなのですが、この辺は面倒なところ。学知、くらいにしようかと思います。「神のいくつかの属性の形相的本質の妥当な観念から事物の本質の妥当な認識へ進む」とありますが、さてなんのこっちゃ。そのあとスピノザがひっぱりだしたたとえ話もよくわかりません。ということで、ここをクリストフォリーニさんに教わるのが今回の目的。うん、たしかに一番ややこしいというか謎めいていることで有名なこの第三種のはなしですから、一節まるまる割いてパラフレーズしても十分なところです。

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3 身体から想像力の力能へ

 今回、この想像力の議論を以て、クリストフォリーニさんの議論はその真骨頂の一端を示してくれることになります。こうした「スピノザにおける想像力の称揚」という議論は、同郷の先輩ネグリ以来で、もしかしてイタリアの伝統なのかしら、と思ってしまうくらいですが、まあそんな勝手な想像はさておいて議論を追っていきましょう。

 人間の認識が、身体の構造をもとにどう展開していくのか、その道程をたどるのが、この第三節の目的です。

 たしかに、スピノザでなくても、想像力というのはロマン派以前の合理主義的精神のなかでは至って評判が悪い、はず。つまり、ありとあらゆる誤謬と迷信の原因である、という具合です。たしかにスピノザもそんな幹事のことはたくさん言っている。デカルトは言わずもがなです。デカルトにとってはそれでも、いや幾何学を理解するとき図もあった方が便利だからたまには役に立つかな、という具合でしたが、パスカルにとっては理性の的。でもこのとき悪口を言われているのは、同時に身体そのものであることもわすれてはいけません。身体性は誤謬の原因。そもそもが、想像というのはこの当時身体的知覚の表象に過ぎない扱いなわけで、それはまあ、知的認識からは遠そうな気がしてこようというものです。

 スピノザにとってはどうでしょう?スピノザも悪口を言っていたような気もしますが、そうはいっても、たとえば『神学政治論』のなかでは、預言者のえる啓示はいきいきとした想像力の産物とされています。いや、それは啓示そのものの悪口ではなくて?と思われる方もいらっしゃいましょうが、まあそれは追々見ていくこととして。でもすくなくとも『エチカ』のなかでは明らかに批判的に扱われているじゃないか!と思わなくもないのですが、事態はそんな単純でもない、というのがクリストフォリーニさんのおっしゃりよう。かれは、想像力は精神の力能puissanceと力量virtuの源泉だとスピノザは示している、というのです。それは、想像力とは身体を持ったものにしか存在しない、ということに基礎を置いています。ということは、この身体観をめぐる相違が、哲学者たちのご意見の相違の源泉にあるはずでもある、と。

 さて、『エチカ』第二部の要は、第七定義、観念の秩序と連結は事物の秩序と連結と同じである、というくだんの定義だとクリストフォリーニさんはまず第一石を置きます。

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2 無限から有限へ


 さて、前回は、スピノザ構成主義、とでもいうべきまとめで、ちょっと強引に『エチカ』のある種の欠点を救ってみようと試みたクリストフォリーニさんの見解をまとめてみたのでした。それを、わたくしは「最初の簡単な道具と、その展開、あるいはその持つ構成力」というふうに言いかえてみたわけですが、今日の話はそこから。

「神の本性の必然性から、無限の事物が無限の様態の元に生じてこなければならない」


 『エチカ』第一部で構築されたシステムの頂点は、この定理16に見出されます。これは、スピノザのいう無限概念の持つ力動性と拡張性を総合したものということが出来る、とクリストフォリーニさんはいいます。これが種であり、ここからすべてが展開していきます。あるいは『スピノザ 実践の哲学』第四章で、「開展」という項を用意したドゥルーズにならって、この言葉、開展を使っても良いかもしれませんが。

 さて、スピノザの神様は、自己原因として知られています。ということは、自己の原因であり効果である、とクリストフォリーニさんはいいますが、うむ、なんとなくどっかできいたことがあるような。もっともあれは対象であって結果ではないので、ここに違いがあるわけですが、その辺の差異がまた面白いところ、かもしれません。

 いきなり話がそれるのも何なので元に戻しましょう。万物は神のなかにあり、そしてそれによってあらかじめ規定され、、その自由意志によってではなく、その本性の持つ無限の力能によって規定されています。神の自由は本性=自然の必然性としてとらえられます。神の本性は自然であり、ここでは必然性と自由のあいだに論理的な対立関係はありません。対立関係にあるのは必然性と偶然性の方です。つまり、必然性と自由とを対立させるというのは、自由と偶然性を混同しているからだと。しかし、スピノザにとっては神は自然そのものであるが故に自由な原因なのであり、その哲学のなかに自然的=本性的な必然性から離れて存する物はありません。

 そして、自然のなかにあるのは実体であり、それは単一にして神である、ということになっています。様態は実体の多様多形な表現であり、属性は知性が実体から把握するもののことです。ですから無限の知性にとっては、属性は無限。でも、人間は無限の実体かあるいは無限の思惟か、としか考えることは出来ません。フィルタリングって奴ですね。ユクスキュルのダニが酪酸という属性しか把握しないように。これが人間の有限性です。他方、神の無限の本性=自然は、無限の様態のなかに表現されます。ここで、様態というのは事物の現れる仕方であるとともに、事物そのものの表現でもあります。事物や出来事とともに思惟も神の様態である、というのはその意味です。

 さて、ここでは、無限の認識が有限性という観念に先だっています。そして、神はアリストテレス以来の不動の動者として、始動因となるのではなく、むしろ原因であり結果であるものの無限の連鎖の総体として捉えられます。ですから、無限であるとか、謎の始動因の探求へと遡上していこうというパースペクティブは逆転させられ、その必然性にしたがって無限に作用する、自由な原因のみがわれわれのもっている「明晰判明な」観念ということになります。こういう風な議論の組み立ては、ある意味ではスピノザのうちにのこる新プラトン主義の影響といっても良いのかもしれません。しかし、もちろんのことながら、こうして展開されていく運動の連鎖から生まれる個物は、いかなる意味でも、新プラトン主義的な堕落のイメージとは無縁です。むしろ、この個物へと、有限性へといたる運動、そこに倫理学の足場があるのです。

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1 知性(知的認識)から定義へ

「鉄を鍛えるためにはハンマーが必要であり、ハンマーを手に入れるためにはそれを作らねばならず、そのためには他のハンマーと他の道具が必要であり、これを有するためにはまた他の道具を要し、このようにして無限に進む。しかしこうした仕方で、人間に鉄を鍛える力がないことを証明しようとしても無駄であろう。」「事実、人間は、最初には生得の道具を得て、若干のきわめて平易なものを、骨折ってかつ不完全にではあったが作ることができた。そしてそれを作り上げてのち、彼らは他の比較的むずかしいものを、比較的少ない骨折りで比較的完全に作り上げた。こうして次第にもっとも簡単な仕事から道具へ、さらにこの道具から他の仕事と道具へと進んで、彼らはついにあんなに多くの、かつあんなにむずかしいことを、わずかな骨折りで成就するようになった。それと同様に、知性もまた生得の力をもって、自らのために知的道具を作り、これから他の知的行動を果たす新しい力を得、さらにこれらの行動から新しい道具すなわち一層探求を進める能力を得、こうして次第に進んでついには英知の最高峰に達するようになるのである。知性がしかしそうした工合のものであることは、何が真理探究の方法かを理解し、また探求をさらに進めるための他の新しい道具を作るのにそれだけは必要であるその生得の道具とはどんなものかを理解しさえすれば、容易に明らかになるだろう。」(「知性改善論」(畠中尚志訳、岩波文庫、1968)、pp. 29-30


 ちょっと長いですが、まずはスピノザ本人の引用から引っ張ってみました。

 この言明は、ある意味では、ここから取り上げる、クリストフォリーニさん論じるところのスピノザの方法論を、本人がよく表現してくれている箇所といってもいいかもしれません。デカルトがそのコギトの探求によって、まずは絶対確実な根拠あるいは論拠を探し求めたのにたいして、スピノザのやり方はむしろ、とりあえず手持ちの物を動かしてみて、それが実際に持つ構成力を確認しながら作業を続行するというものです。まずはこれを念頭に、前回ご紹介した、Paolo Cristofolini, SPINOZA - Chemins dans l'ethique, Presses universitaires de France, 1998. の第一節を読んでいくことにしましょう。

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証城寺の屋上

「この熱情を支配し、自然の支配と、自然に対する人間の力の拡大に向かって努力する賢者、彼にとって、この世界が罪の泥濘ではなく、己れの活動の場所として存在し、更に又、己れの力の享受と発展のために存在するところの賢者---この賢者は、物理的世界を己れの支配の下に従属せしめ、己れのものとし、享楽し、生産諸力をやみ間なく発展せしめんとしつつある、かの青春の血気に燃えた、楽天的なブルジョアジーの、哲学的に理想化され、純化された姿以外の何ものであろうか?スピノザが十七世紀における資本主義の模範国において哲学的に定式づけ、宣明したのは、近代ブルジョアジーのこの革命的側面である。」(タールハイマー『スピノザ時代のオランダにおける階級關係と階級對立』、 タールハイマー, デボーリン「スピノザと辨證法的唯物論」(佐藤榮譯、共生閣、1930)所収、48頁)


 最近の(というほどでもありませんが)著作で、ジジェクはしばしば、スピノザ主義(たぶんドゥルーズネグリあたりを念頭に置いたそれ)を後期資本主義のイデオローグと論じています。
 まあ、確かにそれは間違ってはない、というより、むしろずいぶん前からそのことははっきりしていたのではないか、あるいはとても古典的な読解なのではないか、ということが、この引用からも分かります。もうちょっとさかのぼれば、たぶんフォイエルバッハも。だから、ほんとうに驚くべきことがあるとすればそれは、後期資本主義から現代的な資本主義にいたるまで、一貫してスピノザをご本尊と仰いでいるといってもかまわないであろう、というその御長命っぷりにある、ということのほうなのかもしれません。それはもしかすると、タールハイマーの言明にあるように、そこに資本主義の持つある種の革命性が保存されているからであり、そしてつねに変わらず資本主義はその革命性から力を得て、さまざまにメタモルフォーゼンしている、ということなのかしら、と、夢想を羽ばたかせたいところですが、これはまだただのイメージでしかないので、やめておきましょう。

 ですが、『エチカ』の静謐な哲学者というイメージと、この「革命的」などとご大層な、あるいは動的なイメージのする言葉とは、なかなかに結びつきがたいものがあることも確かです。というわけで、たとえばネグリドゥルーズのような、かなり吹っ飛んだ、というかいまふうの研究に通じる路線もじゅうぶんに押さえつつ、かつ淡々と手短に『エチカ』の解説というかダイジェストというかポイントの要約をしている著作があったりすると、それはきっとすばらしいだろう、とお思いのあなたに(だれやねん)、今回ご紹介するのはPaolo Cristofolini, SPINOZA - Chemins dans l'ethique, Presses universitaires de France, 1998. でございます。原著はイタリア語(1993年)ですが、そこはお奉行様ご勘弁をいただいてフランス語から。といっても、本編は60頁程度に収まってしまう、このコンパクトな分量なら、イタリア語のお勉強のためにもそっちで読むべきだったかもしれない。。。でもほら、フランス語版にしかないおまけも大事だし。うん。

 この本は、ちょっと変わったスタイルを取っていて、7つの「道程Itineraires」によって『エチカ』を解説していこう、という筋立てになっています。全部で60頁ほどの分量ですから、各「道程」に割り当てられたページは5,6頁から十数頁。その7回を7回に分けて、ということは一回一回はとても短く、そしておなじくらい静謐に紹介していくことにしましょう。というわけで、今回はとりあえずその七つの道程を紹介して、お話を終えておきます。短いけど。まあ、ちょっと間も開いたのでリハビリもかねて。

1 知性から定義へ
2 無限から有限へ
3 身体から想像力の力能へ
4 想像力から学へ
5 神の属性から人間の本質へ
6 受動的情念から知的愛へ
7 叡智から自由な共和国へ

 
 いや、書こうと思ったんですけど、満月が近いおぼろ月夜がとても綺麗ということに気づいてしまいまして。
 いまからお月見です。