なからぎざくら

桜並木にほど近いところに住んでいるせいか、この時分桜に不自由することはありません。 なんてまあ、いいかげん、昔「常春の国、マリネラ」ってあったよね、と想起させるほどのワンパターンさ、だいいち、こないだ桜は終わったゆうたやんか、というツッコミ…

存在のスープ

さて、前回は春の感傷とともにラフマニノフを紹介しつつ、気を取り直してモッラー・サドラーの「存在認識の道 : 存在と本質について」(井筒俊彦訳・解説、岩波書店、1978)を紹介する、というところまで話をしました。 この本を紹介しておこうと思ったもう一…

歓楽極まりて哀情多し

春、桜の季節はもう終わり。 今年もじゅうぶんに桜を堪能する時間はできました。そんな時、いつも思うのは、僕らが春になる、春が桜になる、桜が春をする・・・といったような、そうした感慨です。サルトルなら吐くのでしょうけど、幸いにも立派なエイジャン…

チェシャ猫

さて、前回は近藤智彦「「出来事」の倫理としての「運命愛」ーーードゥルーズの『意味の論理学』におけるストア派解釈」(「ドゥルーズ/ガタリの現在」小泉義之、鈴木泉、檜垣立哉編、平凡社、2008、p. 41-57)を紹介しながら、さて、ブレイエ本人における「準…

パントマイム

さて、前回までの4回で、いちおうブレイエをなぞってきたわけですが、さすがに素人が(それも頭の悪い素人が)やるとどんくさく紛糾したものになることは避けられない、ということで、ここはひとつ、綺麗な補助線を入れておきましょう。ということで、今回は手…

生物学的唯物論

ここまで3回ほど、エミール・ブレイエ「初期ストア哲学における非物体的なものの理論」(江川隆男訳、月曜社、 2006)を中心に、ストア派の、前半二回は「構成と親近性」を中心に世界の構成を、後半第一回目の前回は、そこから「出来事」を取り出してみたので…

大奥炎上

するかどうかはともかくとして、宇宙は炎上する。それがストア派の火の神話、なのだそうです。 さて、前回まで、エミール・ブレイエ「初期ストア哲学における非物体的なものの理論」(江川隆男訳、月曜社、 2006)を中心に、A.A.ロング「ヘレニズム哲学 : スト…

あれか、これか

さて、前回はエミール・ブレイエ「初期ストア哲学における非物体的なものの理論」(江川隆男訳、月曜社、 2006)を中心に、A.A.ロング「ヘレニズム哲学 : ストア派、エピクロス派、懐疑派」(金山弥平訳、京都大学学術出版会、2003)と、それから「哲学の歴史 ; …

ストイックな男

と、呼ばれて久しいわたくしですが(味も素っ気も色気もない、でも邪気と妖気に溢れた生活を無為に過ごしている、のほうが正確だという指摘はさらっと聞き流して)、そんなわたくしでも、じゃあストア派って、と聞かれれば、とんと知らない、と正直に申し上げ…

鹿せんべいをくれよ

「鹿せんべいをおくれよ」なる、衝撃的な(?)エンディング音楽で話題になったフジテレビ系列で放映のドラマ「鹿男あをによし」、最終回はちょうど先週、ないと寂しいねえ、と思いつつ、今日はそのことを本当に雑感だけ。今回の記事のテーマはいわゆる「治療宿…

未来派野郎

さて、ここまでドゥルーズの「シネマ2*時間イメージ (叢書・ウニベルシタス)」から、ながながと切れ味いまひとつなレジュメを作っていたわけですが、最後におまけ、ドゥルーズせんせいによる未来予想図を紹介しておきましょう。もちろんのことながら、ドゥル…

ひかるかいがら

さて、ここまで、われわれはドゥルーズの「シネマ2*時間イメージ (叢書・ウニベルシタス)」の理論的骨組みだけをインチキに取り出す、という試みを行ってきました。計画通りここまでドゥルーズが論じる映画の一本とて引用しないというラディカルっぷり。居直…

薔薇の蕾

さて、前回前々回と、ドゥルーズ「シネマ2」のお手軽にして好い加減な要約ということで話を進めてきました。前回は、運動イメージから時間イメージへの変化、そしてそのなかに息づく純粋回想と現在との出会いのメカニズムを、ドゥルーズが「結晶化」という美…

光の子

さて、前回は、「シネマ2*時間イメージ (叢書・ウニベルシタス)」(宇野邦一ほか訳、法政大学出版局、2006)を、2、という題名からも当然その存在が予期される1も読まない、紹介されてる映画も見ない、理論的まとめらしき節のある本の理論的まとめをしよう、と…

島根のシネマは暇シネマ

世の中、賢く見せるには「自分の知らないことはしゃべらない」ということが大事であることは、よく分かっています。 もうちょっというと 1. 知らないことはしゃべらない 2. 目的のはっきりしないことはしゃべらない 3. そもそも1.2.のような状況に身を置かな…

おしゃべりな胃潰瘍

さて、前回まででだいたい、ブルーノ・ラトゥール「科学論の実在―パンドラの希望」(川崎勝、平川秀幸訳、産業図書、2007)の面白そうな概念は拾っておけたわけですが、さいごにひとつ、ひろい忘れが。それが、ファクティッシュという概念です。お好きな方には…

低温殺菌処理された世界

さて、前回前々回と、「科学論の実在―パンドラの希望」(川崎勝、平川秀幸訳、産業図書、2007)からおはなしを続けてきました。前回はかれの「実在論」が、ハイデッガーなら「カプセル状の自我」とよぶであろうような、内部にたっぷりの妄想(と言語)、外部に…

ロンドン橋落ちた

さて、前回はブルーノ・ラトゥール「科学論の実在」(川崎勝、平川秀幸訳、産業図書、2007)から、まずはかれの愛する(たぶん)パストゥールのお仕事をもとに、かれが素朴実在論と社会構築主義というわかりやすすぎる対立を否定したところまでおはなししてき…

魚はいつも

魚はいつも 無口だから わたしから話しかけなくちゃこんながまんがいるなんて こんながまんがいるなんて(矢野顕子"Angler's summer") 話す、ということは、たしかにちょっと不思議なことです。 わたくし自身はといいますと、釣りはまったくしないのですが、…

唯フン論、あるいはヨーグルト入りカレーライス?

さて、ここのところ、赤ちゃんのうんちとおっぱいを考えながら、話を対象aと唯物論、というと言い過ぎですね、まあ物質主義、くらいでしょうか、まあそういうところまで展開させてきたのでした。 たとえば、ラカンの前回冒頭に掲げた引用箇所にもあるように…

意志の過剰

「思考を意識と同一視するなら、思考を物質の進化から説明することはさほど難しいことではありません。物質の進化から説明するのが難しいこと、それは端的に「ホモ ファベール」、つまり生産と生産者です。 生産は独自の領野です。つまり、それはシニフィア…

初夏の対象a

さて、ほとんと3ヶ月ぶりの更新になった前回の記事では(いや、4月からいろいろ新しい仕事が入って本当に大変だったのです。世間様的にはふつうの仕事量なはずではありますが。。。)とある初夏の一日、わたくし、3ヶ月の赤ちゃんに会いに行く、という話をしつ…

ぶっとい前足は

大きくなる証。 と言っていたのはマンガ「動物のお医者さん」でしたが(言われていたのは幼犬時代のハスキー犬のチョビ)、人間の場合は赤ちゃんがどうだったかはともかく、前足、もとい前腕がぶっとくなるのはお父さんになったとき、という印象があります。 …

法悦の詩、詩人の魂

さて、前回は、イヴ・ボヌフォワ「バロックの幻惑 : 1630年のローマ」(島崎ひとみ訳、 国書刊行会、1998)を取りあげて、カント的な「表象の生産者」としての主体の誕生する前に、まずはルネサンス的なミクロコスモスの崩壊があり、そこで生じる虚無と、そし…

階段落ち

「形態の遊びやアナモルフォーズを始めとする手法へのバロック的回帰は、芸術的探求の真の意味を再度確立するための努力である、と私は思います。芸術家たちは線の特性の発見に没頭し、どう考えてよいか解らないところにあるもの、つまりまさしくどこにもな…

雪月花

春の宵の月に浮かれていたのが二日前、今日は今日とて霧雨のような粉雪の舞うろくでもない一日だったわけですが、皆様いかがお過ごしでしょう。 さて、前回は坂部恵先生の「ヨーロッパ精神史入門 カロリング・ルネサンスの残光」(岩波書店、1997)をとりあげ…

遠く離れた月下界で

あまりにうららかな陽気に満月と、実に素晴らしい一日を、例によって河原でぼうっとしながら満喫していたわけですが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。 こういう日は、寒さによって隔てられていた自分と自然が、微妙に境界線をなくしますし、ついでに意識…

スピノザ的構成主義?

というわけで、前回からカッシーラーの「認識問題2-1」のスピノザ論を追ってきたのでした。そしてスピノザの最初期の草稿「短論文」では、なんとも興味深い、認識における絶対の受動性が描かれていることをみてきたのでした。そう、前回最後に引用したカッシ…

お皿のうえの肉まん

さて、流れ流れついでに、こうしたルネサンス哲学の系譜の流れをカッシーラーせんせいに従ってもうひとつだけ追ってみましょう。それはカッシーラーせんせい扱うところのスピノザ。もはや潜勢力というテーマとは関係なくなりつつありますが、いや遠回しに言…

エロスなインストール

さて、前回までは、ニコラウス・クザーヌスの包含complicatioと展開explicatioをまとめたカッシーラーを引用しつつ、流出論のアポリアである「なぜ流出せねばならないのか、そしてそんなにも強烈な断絶があるのなら何故それは起こったのか」という問題が、中…